鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―47―生活美術の普及である」(注19)。また、山本真平会長は成立大会の挨拶において「決の増強」のため、「一方では長期戦における民心の安定という点から、戦下国民生活力的視覚の力で国民の心に訴え、国民に希望と力を与えるように……他方では……臣道の実践と奉公の立場から、その責務をよく果たし、国民の生活を豊かにするように画家に求めた」(注20)。要するに、画家たちが要求されたのは、決戦下の「国民に希望と力を与え」る「生活美術」である。これも日本内地画壇の動きに追随したものだと思われる。例えば美術雑誌『アトリエ』が『生活美術』に改題(1941年9月)したのがその最も顕著な現れであり、《大東亜戦皇国婦女皆働之図》〔1944)をはじめ銃後の「滅私奉公」を主題とする作品も多く制作されていた。台湾の場合、そのような共同制作はないが、藤田嗣治《島の訣別》〔図5〕や名渡山愛順《那覇の千人針》〔図6〕、山田新一《朝鮮志願兵》〔図7〕などに見られるように、台湾という「地方性」、いわゆるローカルカラーの応用が全面的に推進された。このようなローカルカラーの応用は、戦争を正当化する一手段に過ぎないが、「ローカルカラー」プラス「生活美術」という表現こそ、台湾「聖戦美術」の特色であり、台湾人画家に関しては、更に「皇民奉公」(注21)という課題が主題選択に大きな影響を及ぼしていたと思われる。先述した郭雪湖《銃後の護り》が好例である。あるいは、出征兵士を見送る「送出征」の場面、例えば陳澄波《雨後淡水》もその特色を有している。1926年帝展初入選した陳澄波は、東京美術学校(1924〜29)の出身である。パノラマ的な構図に細かい点景描写を特徴とするその風景画は、叙情的で独自の境地を有するものとして最も高い評価を得ている。一方、その自由奔放な筆触による形のデフォルメは、とりわけ自画像などについて、ゴッホとの類似がよく指摘される。1947年の「2・28事件」(注22)に巻き込まれたせいで、死後、人々に忘れ去られた時期もあったが、最近では最も注目を集めている画家の一人である。その不慮の死により、初の遺作展(1979)の開催後、陳澄波の「祖国愛」が語られてきた(注23)。だが、『陳澄波百年紀念展』(1994)において、その陳澄波に《雨後淡水》〔図8〕が初公開された。同展図録のキャプションには「雨後淡水 油彩 陳収蔵」と明記(注24)。しかし、これより二年前に陳源建が寄せた「陳澄波の色々」という短文においては、「兄の家の居間で一枚の未公開作品を見た」と述べられ、同文の図版に掲載されたのが《雨後淡水》であった。そこでの題名は「送役図」となっている(注25)。また陳源建によれば、医者であった父親は陳澄波の親しい友人であり、よきスポンサーであったので、《雨後淡水》は陳家のコレクションの一つさん源滔先生

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