鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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黄J恵もそれに触れることなく、ただ同じく出征場面を描いた李澤藩《送出征》〔図9〕や翁昆徳《プラツトホーム》〔図10〕と比較した――「両者が送出征の光景をそのまま画面に記録したのに対して、陳澄波《雨後淡水》における送出征は、その従―48―「台湾」とは分かり難い。「淡水」という場所でそれを描いたが、地元を描いた二人よりもいっそう台湾ローカであり、陳澄波の真作であることは間違いないであろうとのことである。しかし、絵の題名変更の経緯については、明らかにされていない。来の風景画の中に描かれている。(略)、圧迫した画面空間や両側に高く聳える木々の包囲によって、送別行列は非常に目立つ。彼らは〈祝出征〉の幟を高く挙げ、手に日の丸を持ち、画面の右側に向いている。しかし、出征者を描いた李澤藩や翁昆徳と違って、《雨後淡水》は送別者の視線によって出征者の存在を暗示しているのである。そのため、画面から不完全さや断片的な印象を受ける。これは、陳澄波が個人的で主観的な解釈に基づいて描いた送出征の場面である」(注26)。確かに、李や翁の作品と比べて《雨後淡水》は違うように見える。まず、場面の設定の相違が挙げられる。李澤藩(1907〜89)の「送出征」の舞台が画家の故郷の新竹駅であることは当時の写真から分かるが、駅の建物は明らかに「鉄筋や煉瓦の洋式建築」であり、丸いドームの屋根の鐘塔がその上に聳え立つ。つまり、新竹駅は植民地政府による洋式建築であり、《送出征》は「台湾」の一地方を描いたものとして、いわゆる「台湾ローカルカラー」を表現しているのだが、それほど高い認知度はなかったと思われる。また、出征の幟や描かれた見送りの人々の描写からも一方、翁昆徳は「台湾」を確実に識別できるように工夫した。ホームの天井の中央に一つの大きい看板〔図11〕がぶらさがっている。その上には、一本の線が波打っている。線の左端にはリュックを背負った人物が、線の上方には「新高登山口」という文字が見える。つまり、その線は当時「日本一」高い新高山の輪郭線をかたどったもので、横の人物は登山者である。登山には「嘉義駅」からか「二水駅」からの二つのルートがあるが、翁昆徳(1915〜)は嘉義の出身なので、《プラツトホーム》は「嘉義駅」を描いたものであろう。さて、翁昆徳と李澤藩が地元の駅で行われた送出征を描いたのに対して、陳澄波はルカラーが顕著である。その理由はまず、淡水の「台湾八景」としての高い知名度にある。栄した時代もあったが、淡水河の流砂のため港はしだいに埋め立てられ、大船の往来こびかつて滬尾スペインと呼ばれた淡水は、西班牙オランダ人、荷蘭人と鄭成功の支配を経て、大いに繁

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