―50―台が「淡水」だと分かるのは、陳澄波の淡水シリーズの面影が残っているからだ。だが、淡水シリーズでは洋式建築が目印で主役であったのに対し、《雨後淡水》では逆に脇役だったp式瓦房が、もとの題名「送役図」を表わすモチーフ―とりわけ「日の丸」やその下に赤い「祝」を書いてある「出征幟」―と共に、主役を演じている。なお、黄J恵は見送る人々が「画面の右側に向いている」ことや「出征者の不在」を指摘しているが、筆者には行列が道の先へ、つまり画面の奥へ進んでいるように見える。出征者は幟に遮られているのではないだろうか。いずれにせよ、翁昆徳の「新高山」は依然として登山の名勝として表現されていたのに対し、《雨後淡水》の「淡水」は、もはや観光名勝としての役割を果たしていない。この場合、道の曲線に沿って隙間なく立ち並ぶ、「反自然の固まり」(注29)と酷評された台湾人の伝統家屋が台湾ローカルカラー表現を担う。とりわけ画面左端に、真正面から描かれた大邸宅が画面の約四分の一を占め、異国情緒豊かである。このように、目印の洋式建築と共に山も水も画面から消え、淡水は「送出征」の舞台としての単なる台湾人の町に還元されたのである。そもそも台湾人には兵役の義務はなかった。1944年9月1日に台湾人に対する徴兵制が実施され、22,000余名が徴集されたが、それまでには、1942年4月から「陸軍特別志願兵」が設けられ、三年間に約6,000余名(そのうち、先住民の約1,800余名が「高砂義勇隊」を編成)が前線に送られた。翁昆徳や李澤藩の作品が描かれた1938年の時点では、出征者はまだ在台日本人しかいなかったため、両者には送別者の着物姿が目立つ。一方、《雨後淡水》の行列には着物らしき姿は見出せない。また《朝鮮志願兵》や《島の訣別》などは、見送り側の身なりから出征者の出身が判別できるが、《雨後淡水》の場合はそれも果たされていない。しかし例えば《朝鮮志願兵》の背景に小さく描かれている「朝鮮神宮」(注30)が恐らく識別できないのに対し、《雨後淡水》の家々は台湾家屋として認識されていたはずである。つまり、《雨後淡水》は、「台湾の淡水」から戦場へ赴く台湾人の出征者を見送るものとして描かれたと考えられる。以上に考察してきたように、陳澄波をはじめ台湾人画家も文学者と同じように「総力戦」に引き込まれていた。「いわゆる〈総力戦〉は最初ドイツの提起するものであり、主に交戦国の長期戦争の消耗に対応するために、後方に置かれている国民がすべての軍需品を提供し、ならびに前線に必要な〈人的資源〉を供給しなくてはならないということである。このほか、国民の国家意識の強化、および宣伝活動の協力や心理
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