注「台展三少年」は第一回台展東洋画部に入選した20歳未満の三人を皮肉を込めて呼んだ呼称だ 謝理法『日拠時代台湾美術運動史』(1976年6月〜翌年12月雑誌『芸術家』に連載)、台北:芸■台湾総督府「台湾美術展開催の意義」(『風景心境―台湾近代文献導読(下)』(全二冊、上冊■「台展の第一回入選 時局を反映した軍国色濃厚」『台湾日日新報』1938年10月18日3面。■王秀雄『台湾美術発展史論』台北:国立歴史博物館、1995年、93頁。《銃後の護り》について「農村婦女が麻布を織っている光景を描写し、初期の農村における織機の操作を正確に透視し記録した」(李進発『日拠時期台湾東洋画発展之研究』台北市立美術館、1993年、274頁)や、「戦争の雰囲気を喚起させる明らかなもの、例えば軍服や国旗などは全くこの絵に見られない」ことやモデルが「野菜売りの女性」であったことが挙げられ、「題名は戦争支援の意味を出しているが、作者が制作の原点においては戦争意識を全く持たない」(廖瑾q『四季・彩妍・郭雪湖』台北:雄獅美術社、2001年、71〜72頁)などの評も見られる。また、別の作品(在台日―51―戦術なども含め、すなわち国内のすべての力量を動員して戦争に投入し、勝利を求めることである」(注31)。これによって、日本語の強制使用や風俗習慣の日本化の強化に加え、台湾は増税につぐ増税、強制貯蓄、戦時公債割当、金品献納の金銭的負担の他に、軍夫、通訳、軍需工の徴用(南洋の占領地に派遣された台湾人は、高砂族を含めて92,748人、日本内地の兵器廠に徴用された台湾人は約8,000人)、勤労奉仕(延人数27〜30万人)、志願兵、徴兵等の人的犠牲を強いられたのである(注32)。台湾人画家の果たした役割は明らかに文学者などと同様、「国民の国家意識の強化、および宣伝活動の協力」であるが、「絵と文学には差があると思ふ。文学は一つの建設的なものを書いて行けば、戦争に関係なくてもよい、表面は戦争に関係なくても許される。絵は例へば、画材に戦争に関係あるものをとらないで一つの建設的意欲を以てやる。建設的意欲を以てやつても、絵を判る人は判るが、第三者にはそれが判らない。絵と戦争の結びつきは文学よりもむつかしい」と作家の黄時得はかつてこのように発言していた(注33)。これは例えば「日本人になることはそんなに難しいことなのか、僕にはさう難しいこととは思へない。二重橋前に額づいてあの厳粛さに感激できればそれで充分ぢゃないか」(注34)と表現した周金波『志願兵』(1941)が「皇民文学」として議論されていたのに対し、陳澄波のもう一つの作品、《日本二重橋》〔図18〕(注35)はこれまで単に日本の名勝を描いたものとしか見られていないことからも裏付けることができよう。また、これこそ、台湾のみならず、戦後の日本「聖戦美術」研究にとっても一つの盲点だと言えるのではないだろうか。ったが、のちに三人の名声を象徴する代名詞に変わる。術家出版社、1978年、208〜209頁。は下冊の中国語訳)台北:雄獅美術社、2001年、643〜644頁に収録)。
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