.江戸時代中期画壇における沈南蘋画風の伝播と受容について―57―――版本と大名を中心に――研 究 者:千葉市美術館 学芸員 伊 藤 紫 織はじめに享保16年(1731)、中国から長崎にやってきた中国人画家沈南蘋はその精緻な描写と華麗な彩色によって江戸時代中期の日本絵画に大きな影響を与えた。その画風が広まるにあたって重要な役割を果たしたのが、南蘋の影響を大きく受けた画家(南蘋派と呼ばれる)が出版した版本の画譜である。版本の出版は資本を必要とする経済活動であり、その出版には資金提供者、見込まれる購買層の裏付けが必ず存在する。またこの時代大名など高位の武士で南蘋の影響を受けた画風(南蘋風)の絵を描くものが多くいた。無論彼らの周囲にはプロの南蘋派の画家が存在し、その作品があったことは疑いない。しかし大名らの作品も贈答用として広範囲にやりとりされた可能性があり、彼らが南蘋風を愛好し実践したことは社会的地位が高いために影響力が大きかったであろう。今回の調査では宋紫石『古今画藪後八種』『古今画藪後八種四体譜』、森蘭斎『蘭斎画譜』『蘭斎画譜後編』の諸本を調査し、本多忠典、阿部正精、戸田忠翰、増山雪斎、大岡忠愛ら大名画人の作品を調査した。また版本も出版しており、大名家に出入りしていたと思しき森蘭斎の作品も調査に努めた。これらの調査結果について以下に述べたい。南蘋派作画大名ネットワーク柳沢信鴻(伊信、1724〜1792)が残した『宴遊日記』に見る絵画活動と、血縁・婚姻・俳諧などを媒介にした大名間のネットワークについて以前にも触れたことがある(注1)。柳沢信鴻のもとには宋紫石・紫山親子が出入りし、信鴻本人と息子が南蘋派の絵を残している。柳沢信鴻に近い人物で南蘋派の作画を行なった大名を追加したい。また今回大名関係図を増補改訂した〔図1〕。本多忠典(1764〜1790)は三河岡崎藩主。忠典の父、本多忠盈は信濃松代藩主真田信弘の六男である。柳沢信鴻の正室は真田信弘の娘であるため、忠典は信鴻の義理の甥にあたる。すでに福井久蔵『諸大名の学術と研究』において「画風沈南蘋を学ぶ」とあり、『新編岡崎市史 美術工芸』においても「葡萄図」(随念寺)が黄檗派風、
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