鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―58―「南天に小禽図」(本多隆将氏蔵、三河武士のやかた家康館保管)〔図2〕が宋紫石風として紹介されている。今回調査することができた「南天に小禽図」は宋紫石「聯珠争光図」(神戸市立博物館)や同「雪中百舌図」(『宋紫石画集』60−2)と構図もモチーフの描写もよく似ている。特に背地を墨でぬった表現、塗り残しによる雪の表現は極めて近い。画風からいっても、信鴻との縁からいっても宋紫石に学んだことはほぼ確実である。黄檗派風として紹介された「葡萄図」も宋紫石「葡萄図」(神戸市立博物館)を念頭におけば宋紫石のレパートリーの中で考えられる。それほど顕著な南蘋風ではないが、忠典の後を継いだ養子忠顕の子で藩主になった本多忠考(1805〜1879)も「牡丹に孔雀図」(本多隆将氏蔵、三河武士のやかた家康館保管)を残している。また忠顕は紀伊藩主松平頼謙の実子で、この忠顕の姉妹が次に述べる阿部正精の継室という縁も興味深い。阿部正精(1774〜1826)は福山藩主。正精の父、阿部正倫は柳沢信鴻の娘を正室としている。信鴻の娘は卒去と伝えられ、正倫は継室をむかえているが一度は姻戚であった。老中として幕府の政治に深く関与した正精は書画にも親しみ、福井久蔵『諸大名の学術と研究』では「自ら蘭学を学び欧風の景色画一幅あり」と伝える。南蘋派風の作品としては「不老朝花図」(福山誠之館同窓会)、「柳小燕図」〔図3〕「雁来紅に小鳥図」(いずれも福山城博物館)がある。「柳小燕図」は寛政5年(1793)の作品で、背地に藍を帯状に刷いている。モチーフはあっさりとした描写で、全体の雰囲気は渡辺玄対のような江戸の南蘋派の作品に近い。一方薔薇は胡粉と臙脂で濃厚に描かれている。「雁来紅に小鳥図」も背地に藍を刷いて、岩に草花のモチーフを表した、淡白な描写の作品であるが、岩のモデリングは細かい筆を重ねて立体感を作る点で南蘋派風、陰影を意識するとみれば洋風画風である。「不老朝花図」は文政6年(1823)の作品で、対角線上に配した松の幹に朝顔がからみついている。南蘋派風に背地に藍の地塗りを施すが、一部赤いのは朝陽を暗示するものか。鱗のような樹皮をところどころ墨を抜いて立体感を表そうとしている。戸田忠翰(1761〜1823)もまた南蘋派作画大名ネットワークと結びつけることができる。息子忠温は阿部正精の娘を正室に迎えている。忠翰の娘は丹後田辺藩主牧野以成に嫁しているが、以成の父宣成の正室は酒宗雅(忠以)・抱一兄弟の叔母であり、以成の姉妹は増山雪斎(正賢)の嫡男正寧(雪園)の正室である。戸田忠翰「雨中鶏図」(大英博物館)は所蔵館内で使用されているリストには掲載されているがほとんど紹介されたことがない。天明5年(1785)の作品。背地に藍と墨を塗っていて宋紫石「雨中軍鶏図」(藤懸静也氏旧蔵、現在所在不明)と図様がそっくりである。忠翰

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