注伊藤紫織・玉蟲敏子「『宴遊日記』にみる絵画活動」『江戸の異国趣味―南蘋風大流行―』展図 拙稿「森蘭斎について―支持者とのかかわりを中心に―」『美術史』156,2004,344頁下段。■後八種は序が明和6年(1769)と明和7年(1770)、奥付が明和8年(1771)正月であるが、割印は安永6年(1777)6月であり、実際に別の本として販売された期間は短かったと推定。後八種と四体譜が四体譜の出版を機に揃いとして刊行されたであろうことは以下に指摘がある。中野三敏「画本研究ノート」『伝記』8,1986年,11〜12頁。■前掲,中野論文,8〜12頁■前掲,中野論文,11頁■前掲,拙稿『美術史』掲載論文,336頁上段〜337頁上段。■安永拓世氏のご教示による。■前掲,拙稿『美術史』掲載論文,註56。一方ではもともとの雲谷派風の作品も残し、また絵図等も制作している。―64―『蘭斎画譜』の開板元である。る。須原屋茂兵衛はもともと『蘭斎画譜後編』の版元だが『蘭斎画譜』すべてのバージョンに共通する唯一の版元でもある。また秋田屋市兵衛はすなわち大野木市兵衛で、今後、未調査本の調査につとめ、以前に調査した本も再度調査し、考察することとしたい。おわりに版本と大名に着目して南蘋派を考えるとき、地方への広がりも見えてくる。南蘋派は江戸で大きく流行し、大名達もまずは江戸で南蘋派に親しんだであろうが、贈答品としての大名による、または大名が支持した画家の南蘋派の絵は地方へももたらされる。版本も当然各地へ流通していったはずである。今回朝倉南陵という画家の作品も調査することができた。朝倉南陵は大名の御用絵師で元来は南蘋派の画家ではなかったにも関わらず南蘋風の作品も残している(注9)。森蘭斎も各地の支持者のもとをめぐっていた。今後も南蘋派作品の調査につとめ、考察を続けていきたい。また版本については今回集中的に調査することにより諸本の相違点を認識することができた。今後は未調査本の調査、以前に調査した本の再調査をすすめた上で、出版の経緯を明らかにしていきたい。録,千葉市美術館,2001年。なお344頁上段の『なつ船集』は『なつ那集』の誤りである。合わせて訂正したい。
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