―69―自身に及ぶ記述はないようだ。慶応元年頃から翌2年にかけての写生画帳〔資料2、3〕(注3)には、オランダ語が断片的に記入されており注目される。またそのうちの一冊〔資料2〕には、密教の祈祷法、絵具の製法、ペンを使用したと思われる文字、仏画、戯画、人物や風景写生などの多様な内容に加えて、『舎密便蒙』(注4)なる化学書の抜粋が筆写されており、少年宗立の興味の広がりの一端が窺えて興味深い。写生画帳・スケッチブック・手控帳については、明治初年のものが欠落してはいるものの、宗立が10代であった元治元年から72歳で亡くなった大正7年まで、断続的にではあるが確認できる〔資料1〜17〕。また京都中学欧学舎(注5)で英語を学んだ際の「検査証」〔資料18〕も残されている。手探りで西洋画技法を模索していた宗立が、語学に関しては正規の教育を受けていたことを確認できる(注6)。他には、京都博覧会の賞状や品評委員任命書〔資料20〜27〕、京都府画学校(注7)の教員任免書〔資国勧業博覧会出品解説書」〔資料28〕と料29〜46〕なども新出資料である。「第二會内「旧画学校生員人名簿」〔資料47〕については、かつて紹介したことがある(注8)。上記「出品解説書」は、宗立が第二回内国博に作品を出品するにあたり、作品と自身の履歴を説明する文書の控えと見られる。ここに自身の「沿革」を述べた項があり、次章で宗立の足跡を検証するときに改めて触れることにする。「陽影陰影之大理及油画水彩画之説明」〔資料48〕は年代不詳の自筆冊子。光と対象物の見え方、絵画における影の効果および油彩と水彩についてその技法を簡潔にまとめた内容だが、執筆目的は今のところ不詳である。精読して稿を改めたい。明治22年8月19日付けの文書「東京美術入学学力試験委員任命書」〔資料50〕は、その体裁から京都府が発行したものと思われるが、22年は京都府画学校西宗(西洋画科)が実質廃止になり、東京美術学校が開校した年である。「東京美術」は東京美術学校のことと考えられる。京都府画学校を京都市へ移管するにあたり、予定された西宗閉鎖へ向けて、学生を新設の東京美術学校へ送り込もうとしたものだろうか。その他、印章40顆〔資料57〕が残されている。その多くは後年の墨画に使用したものだが、中にはカボチャの蔕で作った画僧時代を髣髴させるものも含まれている(注9)。田村宗立の画家像・初期の履歴 ―既知関連文献と遺族宅資料の照合―田村宗立の画業の足跡を追ってゆく前に、宗立に関する基本文献と考えられているものについて、若干の整理を要すると思われる。田村宗立に関する主要参考文献として、まず最初にあげられるのが、黒田重太郎の『京都洋画の黎明期』(以下『黎明期』と略す)(注10)であろう。これは京都の洋画(ママ)
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