鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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―70―史の底本とも言うべき著作であり、今日でもなお、この方面の研究では必ず参照される名著である。宗立に関しても、展覧会図録や研究書でその略歴を記述する多くの場合に、黒田のこの著作が典拠にされる。『黎明期』では第三章に「黎明期の先覚田村宗立」という項を立てて、宗立に多くを割いている。黒田のこの著述は、文中の「註」にもあるように、主要な部分を宗立に学んだ洋画家・伊藤快彦の手記(「京都洋画の今昔(自筆稿本)」)に拠っている。ところが伊藤快彦の手記なるものについては、少々事情が込み入ってくる。この手記は、実は、大正4年に大阪毎日新聞に掲載された大内秀麿の「京都洋画の今昔」(以下「今昔」と略す)を、伊藤が自身の回顧談に等しいものとして雑誌『エッチング』に提供して、昭和10年2月から6回にわたって再録された記事の原稿であったと考えられる(注11)。つまり、黒田は主要な部分を、伊藤を介して大内の「今昔」に拠っているのである。上記『黎明期』、「今昔」に先行するものとして、黒田天外の『名家歴訪録』(以下『歴訪録』と略す)(注12)も参照されることが多い。記者・黒田天外、大内秀麿ともに、宗立を訪問しその回顧談という体裁をとっている。宗立の事歴は、概ねこの三編を出典としている(注13)。宗立が没する前年に、やはり記者が聞き取りした回顧談「洋画の先覚田村月樵翁〜■」(以下「洋画の先覚」と略す)が京都日出新聞にも連載されている(注14)。また宗立と親しかった建仁寺管長の竹田黙雷が一周忌に『芸苑』誌に寄せた文章「田村月樵翁」(注15)は、ちかしい眼差しの宗立像として評価しうるだろう。後者二編も基本的な文献と言えるが、ほとんど引用されることがないのは、周知ではないためだろうか。加えて「出品解説書」〔資料28〕の「開業沿革年暦及び人名」(以下「沿革」と略す)の項は、宗立自筆の「履歴書」である。前置きが長くなったが、上記六編の資料に沿って宗立の足跡をたどることとする。六編の資料間の異同、これ以外の初出、遺族宅資料との齟齬あるいは補足すべき事項がある場合にのみ注記する。宗立の生涯は大きく四つの時期に分けられるだろう(■誕生から京都府画学校奉職まで、■画学校教師時代、■画学校退職後、浅井忠京都来住まで、■晩年)。本稿では、紙幅の制限があるので、上記四期のうち試みに、■期(誕生から京都府画学校奉職まで)に肉付けしてみよう。田村宗立は、弘化3年(1846)、丹波国園部近在に生まれた(注16)。幼名不詳。「宗立」は僧名であるともいうが、遺族によると戸籍も宗立とのこと(注17)。号は「十方明」、「月樵」など。「十方明」は師僧大願から貰った「雅号」で元は「十明」であった(注18)。「十方明」は画僧時代から晩年まで、「月樵」は専ら墨画に見られる。

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