■期以降、画学校奉職後については、残された資料を精読したうえで、いずれまたの機会に詳しく述べることにしたい。京都府画学校で果たした宗立の役割、特に図画―71―10歳のとき(安政2年)に大雅堂清亮についたのが画家への出発点。一年ほどして「彩色の絵が描やってみたい」ため、絵を能くした真言僧大願のもとに移っている(注19)。仏画を始めて二年ほどして、世の中に本物同様に見える絵があると聞き、社寺の古画を見て回ったが、満足できないまま写生に励むうちに、陰影を描き添えることを思いついたと言う。「文久三年の初夏桜実を写生して居る時フト畳に其影があるのに気がついた、影でも実物に伴ふものだから写生をせねばならぬと、之を写した」(注20)。初めて写真を見たのは文久2年か3年頃(注21)、その数年後に油絵のことを知ったらしいから、明治初年頃のことのようだ(注22)。画帳〔資料1〕には「冩眞鏡之図以写之」の文字も見える。雨乞いの祈祷もする宗立が、一方ではオランダ語をかじり、舎密の法・写真術に関心をもって化学書を読んだりもしていた。明治4年頃京都中学に入学して英語を学んだ後、粟田口療病院の雇いとなって解剖図を描くかたわら、ここでドイツ人医師ランケックに洋画の手ほどきを受けている(注23)。明治9年にランケックが帰国すると病院を辞め、明治10年頃、東京に一年ばかり滞在して、玄々堂に石版を学び、高橋由一、亀井至一らとも会っている。ワーグマンを訪ねたのもおそらくこの時だろう(注24)。京都博覧会には明治8年から出品。明治12年東山双林寺で開かれた「油画展観」には小山三造(明治13年から画学校西宗教師)らとともに出品している。明治13年京都府画学校に奉職。明治22年辞任。翌23年画学校の西宗(西洋画科)は廃止。工部美術学校廃校から東京美術学校開校までの間、京都府画学校の西宗は、全国の学校へ赴任した図画教師の養成機関となっていた。京都の洋画界における浅井忠の存在は大きい。田村宗立らが用意した洋画の土壌は、浅井のもとに糾合され、そこで花開く。宗立は明治34年の関西美術会の発起人に名を連ねたものの、30年代半ば以降は油彩画を描かなくなり、以後晩年までは洒脱な墨画を数多く描いている。大正7年没。墓(墓標は遺愛の大硯)は建仁寺にある。教師・印刷工養成といった画学校の実学的側面、および宗立はじめ西宗教師と石版印刷との関わりについての調査は、今後の課題である。画学校を辞めた後(注25)から明治20年代の宗立を巡っては、再び資料が少なくなる。この部分については新たな資料の発掘から始めなければならない。
元のページ ../index.html#80