鹿島美術研究 年報第22号別冊(2005)
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注大橋乗保「田村宗立考」『京都工芸繊維大学紀要人文10』1961年、「田村宗立考補遺」『同 人文12』1963年、「新出の田村宗立画について」『同人文18』1969年 宗立の油彩作品で現存が確認できるものは少ない。近年所有が移転したもの、あるいは遺族のもとから流出したものもある。現時点で知りうる主要作品についてまとめておきたい(図版頁補足)。■画帳、スケッチブックには、所々年号を記入した頁があり、年代特定の手がかりとなる。資料2に関しては、年記はないものの資料1に続くものと思われる(表紙の「No.2」「No.3」は後年宗立が整理のために記入した番号か)。断片的に記入されるオランダ語及びローマ字から慶応2年頃の資料3の近傍と考えられ、加えて「留治良十一才安政二年乙卯誕生」との記載ある頁があることから慶応元年頃のものと思われる。資料2および3とも、写生画帳というよりも、その雑多な内容からメモ帳あるいは手控帳とでもいうべき内容になっている。■『舎密便蒙』は『国書総目録』にもなく不詳。宗立筆写の抜粋文には薬品や鉱物名にオランダ■京都中学は明治3年末に開設され、翌春その一部組織として、欧学舎英学校が開校した。■宗立の語学力がどの程度であったかは定かではない。宗立と昵懇であった建仁寺管長の竹田黙雷は、宗立の一周忌に寄せた文章で「朴訥な七十三翁の彼が自由に会話できたのに京都人は愕いたが語学研究の不便な当時に彼の進歩した着眼と其辛苦とは蓋し想像に余りあるわけである。」と述べている(「田村月樵翁」『芸苑』大正8年7月)。早くからオランダ語に関心を持ち、後にドイツ人医師の通訳兼画工として京都療病院(粟田口療病院)に雇われているから、実用的な語学は堪能であったと考えてよいのではないだろうか。■明治13年開校。東宗(大和絵)、西宗(西洋画)、南宗(文人画)、北宗(漢画)の四学科を設■「資料紹介1明治画学館名簿」『「京都洋画のあけぼの」展図録』京都文化博物館、1999年余談ながら、遺族によると、宗立が若年時に使用した印は、狩野派風の鼎印はじめ多くは芋判黒田重太郎『京都市編京都叢書6京都洋画の黎明期』高桐書院、昭和22年大内秀麿「京都洋画の今昔」『大阪毎日新聞』1915年2月14日、21日黒田譲『名家歴訪録中編』山田芸艸堂、明治34年宗立に一種謎めいた印象がつきまとっているとしたら、この三書に負うところが多いのでないかと思われる。数少ない基本的文献ではあるが、いずれも若干講談調の語り口と、真言の秘法で雨を降らせたり雪を封じたり等の事績がまことしやかに述べられていたりするので、やむを得ぬかもしれない。真言の画僧時代に実際に祈雨法を修したことは、雨乞御礼云々との書き込―72―語と思しいルビがあり、蘭書和訳本と思われる。置。一時「石版局」を置いたこともあった。22年京都市に移管。また〔資料47〕「旧画学校生員人名簿」については、島田康寛氏によっても詳細な論考が加えられた。島田康寛「京都における明治初期の洋画の状況」『三の丸尚蔵館年報・紀要6号』宮内庁三の丸尚蔵館、2001年であったとのこと。雑誌『エッチング』に転載されたとき、題名が「京都洋画の今昔」から「京都洋画の回顧」に変わっていた。題名の変更は、伊藤自身に関する部分への大幅な加筆と一部削除によるものか。再録の経緯と自筆「原稿」については、京都市美術館『京都の美術Ⅱ京都の洋画』、68頁「解題」で原田平作氏が言及している。

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