「洋画の先覚田村月樵翁〜■」『京都日出新聞』1917年3月4日〜7日竹田黙雷「田村月樵翁」『芸苑』1919年7月遺族によると、弘化3年5月8日生まれ、大正7年7月10日没。「僧名・宗立」の初出は遅い。真鍋俊照「月樵道人宗立と仏画」(『三彩』1976年10月)が早い 前掲(注14)、資料3表紙には「十明宗立」とある。■『歴訪録』124、125頁、「今昔」、『黎明期』61頁 前掲、誓願寺境内でからくり眼鏡を見て、浮いて見える絵を描くことに苦心していたようだ■写真を初めて見たのは「蛸薬師御幸町の眼鏡屋吉田佐兵衛」(「今昔」)。眼鏡屋の主人に、写真は描いたものではなく舎密の法で出来ることを教えられた(『歴訪録』)。「吾レ年十七歳始メテ写真ノ術西京ニ至ル之ヲ吉田五石ニ学ブ」(「沿革」)。写真機を購入し自ら撮影したともいう(『歴訪録』「今昔」)。■「二十四五の時に、初めて油絵といふものがあることを知りまして」(『歴訪録』)、「四五年の後■粟田口療病院、ランケックについては、前掲■島田康寛氏の論攷に詳しい。■明治初年から半ばにかけては、宗立自身による画帳・手控帳類は残っておらず、宗立回顧談の前掲文献五編も事項の前後関係がやや錯綜しており、足跡をたどりにくい。明治5年頃ワーグマンに学んだともいわれるが、その初出は『黎明期』であろう。「今昔」では「(京都中学で)米人ボールドウィンに英語を習った」「(粟田病院で)解剖の絵を描く傍ら院医の独人ランケックに油画の手ほどきをして貰った」「外人に近づいてからは自然見聞も広くなり、当時横浜に英人チャールス、ワーグマンなる人の居ることも知った」「明治の初年に横浜へ出かけて彼を訪うた」「此間に高橋にも会ひ、亀井至一、竹次郎の兄弟とも知合となり、悠遊一年ばかりで帰洛した」となっている。明治5年は京都中学に在学しており、明治9年にランケックが帰国すると宗立も病院を辞し(『歴訪録』「今昔」)、「明治十年東京松田氏ニ就テ石版術及ビ銅版術ヲ学ブ」(「沿革」)から、ワーグマンを訪ねた「明治初年」とは、『歴訪録』の「明治5年頃」ではなく、明治9〜10年頃ではなかっただろうか。宗立は画学校西宗の学生を収容する私塾明治画学館を明治22年12月17日(京都府画学校が京都市に移管されて京都市画学校と改称された同日)に開設している(『日出新聞』明治22年11月17日広告)。―73―みのある写生が残ってるので、事実には違いないが。父の名は(貫立)式部、母はナミ。ちなみに、父・式部は医師。公卿の中山家に仕えたというが(『歴訪録』「今昔」『黎明期』)、資料では確認できない。医師であったから典薬寮の中山家であったかもしれない。宗立は、御所北面を勤めた速水家から妻・トモを娶っている。トモの生母は海北友樵(友松から8代末裔、海北家は今日も京都に残る)の娘。宗立が日本画を描くときに使用する号「月樵」は外祖父「友樵」から一字を貰い受けたものであろうか。園部近在[船井郡上河内村]には母・ナミの生家があり、現在は京都府船井郡園部町内。事例だろう。大願[寛政10年(1798)〜元治元年(1864)]は、僧名・憲海。無言蔵とも号す。大願が弟子僧とともに筆写した膨大な仏画粉本のうち、約2000点が京都市立芸術大学資料館に収蔵されている。その中には「十方明」「宗立」等の名が記されているものがある。(「今昔」「洋画の先覚」等)。に西洋の油絵のことが分りかけたが、画法については一向に見当がつかない」(「今昔」)。
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