鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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大宋屏風研究―92―「太宗」「大宗」「太宋」など混乱しているからである(注2)。田中一松氏は「大宋」が本来であるとし、10世紀中後期に成立した『西宮記』に屏風の名がみえることから、北宋(960年建国)の最初期、村上天皇(946−966在)頃に渡来した図様と推察する(注3)。これは15世紀初、洞院実煕が『名目鈔』で、東大寺献物帳の表記方法を参照し、屏風名に国名を冠していたのが国名のみ残ったとする解釈に通ずる(注4)。一方で家永三郎氏は「太宗」が本来であったとし(注5)、北宋建国に先立つこと14年、天慶9年(946)『即位部類記』(個人蔵)の文中に「太宗屏風」の用例を指摘(注6)。田中氏の説をしりぞけ、『封氏聞見録』の逸話(注7)から「太宗」の名を冠したか、――宮中儀式に用いられた屏風の制作と使用・画題の分析――吉田さち子研 究 者:霞会館資料展示委員会学芸員序.平安朝以来内裏において使用された大宋屏風(太宗屏風)は、清凉殿夜御殿の帳代や、各種行事の天皇の御座周辺に用いられる。その画題は有識故実書においては時代を通じ「唐人打毬図」と伝えられる(注1)。しかし実際には一時混乱し、天明8年(1788)の大火ののち復古の方針をもって寛政度御所造営が行われる際に、考証が加えられ図様・仕様とも復元された。本稿では大宋屏風の成立事情から論をおこし、天明大火以前の大宋屏風についてその変遷を追う。使用の事例や、復古調進の過程、現存作例、制作画派や筆者についても鋭意調査をすすめているが、紙数の都合上別稿にゆずる。1.成立事情大宋屏風の成立事情は、しばしば名称に関連して言及されてきた。古来「大宋」と推察する。ここで、唐太宗を範とした史実が知られる清和天皇(858−875在)に注目したい。太宗の時代、唐の元号は「貞観」(627−649)。後世、その治世は「貞観の治」と賞され太宗は聖人化された。死後55年を経て編まれた『貞観政要』は帝王学の教科書として日本にも伝来、9世紀末の『日本国見在書目録』にはすでにその名が記載されるという。清和天皇はこれにあやかり元号を「貞観」と定め、その御代は同じく泰平であったため「貞観の治」と呼ばれる(注8)。清和天皇こそ、範とする聖人ゆかりのものとして「太宗屏風」を生み出し御座近くにそなえた天皇ではないだろうか。

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