―93―大宋屏風は天皇の御座周辺で用いられるが、天皇が常に座す御在所は、政治的動向や倒壊・再建、物忌の要などからふるくは一定しなかった。御在所として清凉殿の整備がすすみほぼ定まったとされるのは、清和より三代ののち宇多天皇(887−896在)、つづく醍醐天皇(897−929在)の御代である(注9)。「太宗屏風」がすでに成立していれば、この時期に御在所の鋪設として定着し得たと考える。文献に初出する天慶9年(946)は、醍醐ののち朱雀につづいて村上天皇が即位せんとする年である。先例の重んじられる宮中にあって、新規の調度が定着し文献に記録がのこるのに、清和から朱雀まで天皇6代、およそ70−80年という年月は決して長すぎないだろう。2.なぜ打毬図なのか「太宗屏風」はなぜ打毬図だったのか(注10)。家永氏は両者の接点として『封氏聞見録』の記事をあげたが、君子として打毬への誘いに応じなかった、というその内容から打毬図が描かれるとは考えにくい(注11)。むしろ周辺異民族との外交の史談に注目すべきであろう。遼代の絵師陳及之が描いた「便橋会盟図」(故宮博物院蔵)は、626年、唐太宗が頡利可汗と便橋にて会見し盟約を結んで大軍を退かせた史談を題材とするが、なかに突厥人の打毬の様子が描かれる(注12)。頡利可汗は630年に唐に降服して来朝し、太宗は「天可汗(世界皇帝)」の称号を得る。貞観の治の外交部分に大いに関係する史談である。大陸の異民族からもたらされた打毬は、唐代、異民族との外交の場で披露されるとともに王宮でも行われ、しばしば皇帝や后、王族が熱中した。ゆえに唐代王族の墓を飾る壁画や俑、銅鏡の文様には打毬図を見ることができる。また、宋代の絵師が唐玄宗と后らの打毬を描いた「明皇撃毬図」(中国歴史博物館)も知られる(注13)。さきの史談が注目に値するのは、9世紀の平安朝における打毬もまた、外交の場と不可分だったからである。古代国家では朝貢してくる異国の使節を「諸蕃」と位置付け「賓礼」をもって迎える。日本もまた、迎接と外交に関わる「蕃客入朝」の儀礼を中国の「賓礼」に倣い整えた。8世紀以降に日本の「蕃客」となったのは新羅・渤海・そして唐である(注14)。「蕃客」は入朝の時季に応じて適切な朝儀に陪席するが、その折、彼国の楽や武芸を披露する例がある(注15)。こうしたなかに、渤海使が打毬を行った事例を見出せる。すなわち、弘仁13年(822)正月の踏歌のあとに、綿二百屯を賭けて渤海使が打毬を行い、また楽にあわせ舞ったという(注16)。『経国集』には同様の場景をうたった嵯峨天皇(809−822在)の七言詩が収められ、騎乗にて毬杖をふるい競って毬をゴールへと打つ撃毬の様子がうかがわれる(注17)。
元のページ ../index.html#103