―94―清和天皇の御代にも、貞観元年(859)、3年、そして13年から16年(874)は毎年欠かさず、渤海使が渡来している(注18)。「蕃客」による打毬を目にする機会はあったのではないか。皇帝が熱中し太宗の外交手腕にまつわる史談に語られる打毬を、実際に目にして想を得、「太宗屏風」として唐人打毬図を描かせたものと考える。3.「年中行事絵巻」の画中画名高い「年中行事絵巻」の「賭弓」の場面では、2度の光景(「射手の奏」と「競射」)で繰り返し弓場殿が描かれる。ここで天皇の左手に描かれた屏風は大宋屏風と解されている(注19)。全60巻ともいわれる「年中行事絵巻」の成立は、内裏の復興と朝儀の充実がすすめられた後白河天皇の院政時代、1170年代の後半とされる。朝儀の範をのこす意図があったとされ、実際に後代、朝儀の参考とされた記録ものこる(注20)。描かれた大宋屏風は高さ約4.5cmと小さいが、1扇ずつ軟錦縁がめぐらされた古い屏風の形式を正確に伝える。図様も極力正確に描かれたものと考え、同時代の大宋屏風を知る手がかりとしたい。住吉家本「年中行事絵巻」(田中家蔵)は江戸時代、土佐広通(のちの住吉如慶)が後水尾法皇の勅により、原本のうち伝存していた16巻から模写した。その後、万治4年(1661)の大火で原本16巻は失われる(注21)。住吉家本の画中画〔図1〕をみると、「射手の奏」では馬に乗らず立姿の人物、「競射」では騎乗の人物が、鉾のようにも見える棒状の道具を携え、各扇に1人ずつあまり動きの感じられないポーズで並ぶ。いずれもi頭をかぶりゆったりした装束を身に付けた唐人のようにみえる。蜂須賀家本「年中行事絵巻」(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)は、住吉家にて文化4年(1807)に模写したとの奥書をもつが、内容の詳細な比較から所謂住吉家本とはまた別種の模本から写された可能性が指摘されている(注22)。その画中画〔図2〕をみると、「射手の奏」では甲冑を身に着けた武将が、馬上で枝分れした鉾など武具らしきものを携える。「競射」では住吉家本に似た騎乗の唐人が描かれるが、よりはっきりと鉾を持った姿に描写されている。いずれも各扇1人ずつ、動きは少ない。ここにみた2種の模本、4種の画中画はそれぞれ異なっており、写しくずれの可能性を多くふくんでいる。しかしいずれにせよ、これらから推察される大宋屏風の図様は、すでに「唐人打毬図」とは言いがたく、「年中行事絵巻」の成立した12世紀には、大宋屏風の画題の混乱が始まっていたことがうかがわれる。鉾は打毬杖の名残とも考えられるが、打毬杖の先端を上にむけ肩に担げ持つポーズは管見のかぎり打毬図に例がなく、鉾になったことで人物のポーズも変化している可能性は大きい。
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