―95―また、同一の屏風を描いているはずでありながら「射手の奏」と「競射」とで画中画が違うのは、大宋屏風に何種類かの図様があり、それを場面毎に描き分けようとする意図があったのかもしれない。例えば「射手の奏」では射場の小蔀を描き、「競射」ではそれを略して隠されていた弓場殿内の調度が描かれている。それと同趣の工夫である。4.「聖徳太子絵伝」の画中画鎌倉時代には聖徳太子信仰が各宗派に流布し、絵伝の制作が盛んになった。親鸞自身が太子信仰を表明していたことからか、真宗寺院にもしばしば「聖徳太子絵伝」が伝来する。なかに、構図や場面の配置・進行に共通性の高い一群の作例があり、そのうち4例に、一扇ずつ馬上人物を描いた画中画の屏風を見出せる。愛知・本證寺本(重要文化財)、愛知・上宮寺本、三重・上宮寺本、そしてもとは真宗寺院に伝来し後世その第一幅のみ寄進されたと考えられる愛知・乾坤院(曹洞宗)本である(注23)。その屏風は第一幅下段「誕生」の事蹟のうち太子が敏達天皇に抱かれる場面で、部屋の奥にたてられる。各扇の幅は約2〜3cm程度。2扇ずつ軟錦縁がめぐらされた鎌倉時代にみられる屏風の形式である(注24)。室内には御帳台が据えられ、御簾をへだてて階のある庇に公卿が並ぶ。ここは天皇御在所で、屏風は大宋屏風ではなかろうか。御在所の調度として知られていたために描きこまれたものと考え、同時代の大宋屏風を知る手がかりとしたい。4例のうち本證寺本と乾坤院本は、鎌倉時代後半の作とされる。本證寺本画中画〔図3〕では、折烏帽子に直垂姿とみえる人物が各扇1人ずつ、跳躍する馬に乗る姿で描かれる。右より3扇目の人物は弓をもつ。乾坤院本画中画〔図4〕では、唐風の服装とみえる人物が、ほぼ各扇に1人ずつ描かれる。5人は馬上にあり1人は徒歩。左より2扇目の人物は雁の群れに弓を引く。馬はいずれも跳躍し背景に山野が描かれる。のこる2例は室町時代中後期の作とされる。愛知・上宮寺本画中画は本證寺本に似る。三重・上宮寺本画中画は構図は本證寺本に似るが、画中人物の服装や色合いは乾坤院本に似る。この時代、馬や馬上人物の屏風絵画題は、厩図・合戦図・犬追物図・巻狩図・牧馬図などがある(注25)。跳躍する馬の表現や弓矢・山野といった新しい要素はこうした画題から混入したものではなかろうか。鎌倉〜室町時代の大宋屏風は、さきに見た12世紀よりさらに画題の混乱がすすみ、馬上人物が各扇1人ずつという構成のみが辛うじて伝えられていたと推察される。
元のページ ../index.html#105