鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注「諸御屏風等有其数所謂漢書打毬坤元録変相図賢聖山水等御屏風之類是也」(『江談抄』12世紀)。「大宋屏風画唐人打毬也」(『江次第抄』15世紀)。「大宋御屏風唐人の打毬のかたちを絵に書たる御屏風をいふ也」(『代始和抄』15世紀)。「太宋の御屏風は唐人打毬の絵なり」(『貞丈雑記』18世紀)。 現存屏風の名称、近世の調進に関わる記録では主に「大宋」が用いられるため、本稿では原則―97―図をみると姿勢や服装にだいぶ変更が加えられ、もはや原本の面影は薄い。打毬杖をもちながら腰には弓矢を携え、騎馬民族風の服装の者もいる。打毬杖の形状も原本と異なり、狩野派や雲谷派、長谷川派が描いた韃靼人狩猟打毬図屏風の類(注32)にみられる打毬杖にむしろ近い。尾形家の粉本にこの図が収録されたのは、舶載した「明皇撃毬図」の図様が韃靼人狩猟打毬図屏風の作画に応用され、転写を繰り返したのちのことであったのだろう。ここで示唆的なのは、絵師にとって人物や馬体の姿勢や構成・動きこそが重要であって、持ち物や服装・民族などはきわめて大雑把に、かつ変更のきくものとして認識されていたらしいことである。ポーズのみ流用し細部を自在に変更することが、ごくあたりまえに行われていたに違いない。転じて考えるに、大宋屏風を描く絵師はいったいどれほど具体的な注文をうけて描いていたのだろうか(注33)。曖昧な条件のみで作画をまかせられれば、絵師は粉本に豊富な図様を流用してそれに応じ、結果として画題が変化することもあり得たのではないかと考える。結.大宋屏風は清和天皇の御代に範とすべき唐太宗の名を冠し成立。図様は「蕃客」による打毬に想を得た唐人打毬図であった。やがて宇多・醍醐天皇の時代、天皇御在所の制度が定められるなかに定着し、村上天皇即位の頃には文献にその名を見出せる。「年中行事絵巻」の画中画から察するに、12世紀、大宋屏風の画題はすでに混乱がはじまっており、打毬杖でなく鉾をもった馬上人物が描かれていた。「聖徳太子絵伝」の画中画からは、鎌倉〜室町時代、厩図や狩猟図など他の画題から影響を受け、さらに混乱がすすんだ様子が知れる。17−18世紀には、中国人狩猟図となった大宋屏風の図様が資料にのこる。近世の狩野派・尾形家の粉本には、唐代の打毬を描いた舶載図様をもととしながらも、打毬と狩猟、異民族が混在する図様を見出せる。絵師が図様を適宜流用するうち画題が変化する過程をうかがわせるものとして示唆的である。

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