鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
108/589

■田中一松「やまと絵序説」(再録)『田中一松絵画史論集 上巻』中央公論美術出版、1985年、■真保亨「大宋屏風(太宗屏風)」図版解説『皇室の至宝6御物 障壁・調度Ⅰ』毎日新聞社、■家永三郎『上代倭絵全史』(改訂重版)名著刊行会、1998年、40−43頁■「天皇御腰輿出御建礼門。先是諸司装束。(中略)瓊幄之内立大床子。其辺立太宗屏風二帖。」■「太宗常御安福門、謂侍臣曰、聞西蕃人好為打毬、此亦令習、曾一度観之。昨昇仙楼有群胡。街裏打毬、欲令朕見。此胡疑朕愛此、聘為之。以此思量、帝王挙動、豈宜容易、朕已焚此毬以自誡。」趙貞信『封氏聞見記校注』中華書局(上海)、1958年、ただし校注は略す。■布目潮j「(第二章)唐王朝の創業と貞観の治」『隋唐帝国』講談社学術文庫、1997年、77−80角田文衛「平安内裏における常御殿と上の御局」『平安博物館研究紀要』第2輯、1971年「打毬」の語は蹴鞠なども含めた球技一般を表現することがある。ここでは馬にのり打毬杖を(注7)参照。また、八木意知男「大嘗会御屏風」『神道史研究』第34巻第2号、神道史学会、1986、17(74)−23(80)頁、33(89)頁では、打毬に辟邪の意があると解釈する。御座を囲む目的としては示唆的だが一考を要する。邵文良『中国古代のスポーツ』ベースボール・マガジン社、1985年前掲『中国古代のスポーツ』に諸作例所収。また、2005年愛知万博で初公開の李h墓室にも撃平野卓治「蕃客入朝」項『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版、2003年荻美津夫『日本古代音楽史論』吉川弘文館、1977年、13−14頁、106−107頁。大日方克己「射礼」項『平安時代儀式年中行事事典』東京堂出版、2003年。黒板勝美『類聚国史』吉川弘文館、1965年、346−374頁。10世紀には打毬は宮中行事にとりこまれ、端午節句など競馬や騎射ののちに行われている(日向一雅「源氏物語『蛍』巻の騎射と打毬」『源氏物語重層する歴史の諸相』竹林舎、2006年、378−384頁)。もともと渡来人が彼国の技芸を披露しのちに王朝人がそれを行うようになるという経緯は、雅楽の成立過程とよく似ている。「十三年正月戊申(校注・十六日)。御豊楽殿。宴五位已上及蕃客。奏踏歌。渤海国使王文矩「七言。早春観打毬。一首。使渤海客奏此楽。/太上天皇/芳春烟景早朝晴。使客乗時出前庭。廻杖飛空疑初月。奔毬転地似流星。左擬右承当門競。分行群踏k雷声。大呼伐鼓催籌急。観者猶嫌都易成」。与謝野寛・正宗敦夫・与謝野晶子、『日本古典全集第一回』1926年、146頁 前掲『類聚国史』■『江家次第』に射場始では御座後ろに大宋屏風2隻を立てるとあり、年中行事絵巻の射場始・賭弓両場面をみると屏風の配置は同一である(射場始の画中画は空白)。裏松固禅『大内裏図―98―頁59頁1992年、212頁としてそれに従った。家永氏前掲論文40頁より抜粋。ただし訓読記号は略す(以下同)。あやつって毬を取り合いゴールへと打ち込むポロのような競技(「撃毬」「馬毬」)のみ「打毬」と称する。寛政期復古以降の大宋屏風には馬にのらない立姿の隻もあるが、これが「毬打」「ギッチョウ」などと称される徒打毬(歩打毬)であるかは一考を要する。管見の限り日本での徒打毬の事例は宮中の童や街頭の子供によるものしか見出せず、また時代も10世紀以降と打毬よりすこし遅れる。毬図がみられる。等打毬。賜綿二百屯為賭。所司奏楽。蕃客率舞。賜禄有差。」前掲『類聚国史』

元のページ  ../index.html#108

このブックを見る