)ティエポロとミルトンⅠ.「美術に関する調査研究の助成」研究報告―1―1.2005年度助成――1742年版イタリア語訳『失楽園』の挿絵版画をめぐって――研 究 者:国立西洋美術館 学芸課 主任研究員 高 梨 光 正はじめにこれまでジャンバッティスタ・ティエポロ(1696−1770)が1742年に刊行されたイタリア語訳『失楽園』に挿絵原図を1枚制作したことはよく知られている(所在不明)。しかしその詳細を分析し、それが彼の画業や様式にどのような影響を与えたかを分析した研究は未だ皆無である。ティエポロが1742年版『失楽園』中に作成した挿絵原図《罪と死》〔図1〕が、同書第十巻の内容に深く迫っていることを踏まえ、彼が制作した版画連作《カプリッチョ》や《スケルツィ》、さらには1730年代後半から1740年代に見られる油彩作品の様式的転換期の原動力となる思想的背景を探ろうとするものである(注1)。ミルトンの『失楽園』のイタリア語版出版事情ジョン・ミルトン作の人類創造と原罪の起源をテーマにした叙事詩『失楽園』は、1667年に英語初版(第十巻まで)が出版され、没する前年1673年に現在の十二巻までの改訂がなされた。この経緯は本叙事詩において第十巻がミルトンにとって極めて重要なクライマックスであったことを示している。英語版に関してはその後1688年ジェイコブ・トンソンの挿絵版や1705年に同様の挿絵版が出版された(注2)。特にこれらの2版に掲載された挿絵と絵画との関係については、ティエポロが挿絵を制作した時期とほぼ重なるウィリアム・ホガースの《サタン、罪と死》(油彩・カンヴァス、1735−40年頃、62×74.5cm、Tate Gallery, London)や、イタリアでは先んじてジャコモ・デル・ポー(1652−1726)の描いた同様の作品(《サタン、罪と死》、油彩・カンヴァス、1705−1708年頃, 126×101cm、Princeton University Art Museum, Princeton)などが図像的源泉を上記2版に依拠していることが既に研究により明らかになっている(注3)。こうした中、ミルトンへの関心も18世紀になるとにわかに盛んになる(注4)。ミルトンが1638−39年にフィレンツェ、ピサ、ナポリなどに滞在中に築いた交友関係
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