―104―婦と立っている2人の侍女が見える。これらの上には2体の飛天がいる。この画面では墓主である夫婦が右側から入って来て、左側で礼拝するという異なる時間の墓主の姿を一つの空間に表現したものであると理解できる。ここで注目されることは仏像の台座の真ん中に博山炉と推測される香炉があり、左側には夫婦が五体投地のごとく跪拝する姿である〔図2〕。香炉が表現された仏像を礼仏のために造像された像であるとすれば、それを端的に証明するのがこの礼仏図であると言える。すなわち、一般人が供養または祈願のため礼拝する時、人と仏とをつなぐ役割を香炉が担っている。そうすると、この礼仏図と当時の信仰とはどのような関係があるのか。このことは同じく高句麗の壁画である徳興里古墳壁画の銘文によって推定できる。c興里古墳の銘文には「釈迦文仏弟子△△氏…永樂十八年太歳在戊申」という文句がある。そこで、永楽18年(408)は墓が造成された時期であり、「釈迦文仏」は『弥勒下生経』または『弥勒来時経』などの弥勒経典に依拠したものである。そのため、当時の高句麗における弥勒信仰の流布が想定できる。そうだとすれば、北魏社会と同様の天上諸仏の世界という認識が高句麗社会にもあって、天上の弥勒浄土表現として具顕化されたのが長川1号墳の礼仏図であるということもできよう(注3)。したがって長川1号墳の礼仏図の本尊は弥勒仏であり、当時の高句麗社会では弥勒信仰が盛行したことがわかる。2.三国時代および統一新羅時代初期の仏像にあらわれた香炉の例長川1号墳の礼仏図以後の仏像のうち、香炉があれわされた例は次のとおりである。1)断石山神仙寺磨崖仏像群この磨崖仏は慶州市断石山雨徴洞に位置し、四つの巨大巌石が東南北の3面に「冂」字形の石室の構造になっている。そこに計10躯の像が浮き彫りされている。北岩は二つに分かれており、左の岩には高さ7メートルにおよぶ立像がある。右の岩には計7躯の像が浮き彫りされている。東岩には高さ約4メートルの菩薩立像があり、南岩には磨滅が激しい長文の銘文と、菩薩像と推定される立像が浮き彫りされている。そのなかで、北岩の右岩の奥には半跏思惟像があり、この像の右には3躯の立像が並んでいる〔図3〕。これらの像の下には2人の供養者と1躯の如来立像がある。2人の供養者は両方とも東向きの側面を表し、高い帽子を被っている。それぞれは柄香炉と樹枝形の物を持っているが、柄香炉を持つ人物がより大きいため、主人公であると推測
元のページ ../index.html#114