鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―106―紀半ば作であると比定することができる。以上のように三国時代末期から統一新羅時代初期、すなわち7世紀初期から半ば頃の仏像のうち、香炉があらわれた仏像は4点である。この諸像の共通点は本尊がみな半跏思惟像であり(注6)、菩薩、僧侶、一般人を問わず、全部柄香炉をもっている点である。また、断石山神仙寺磨崖仏と蓮花寺戊寅銘四面仏碑像の銘文では「弥勒」という文句があることによって弥勒信仰と関連があると推定することができる。したがって、本尊仏である半跏思惟像は弥勒仏と判断できる。にもかかわらず現在まで半跏思惟像の尊名に関する意見は弥勒菩薩像と太子思惟像とわかれているのが実情である。しかし、中国の銘文がある仏像のうち、半跏思惟像の尊名が弥勒像で類推することができる例が見える。たとえば、中国の興和2年(540)銘白玉菩薩思惟像の銘文には「敬造玉思惟像一躯願亡考上生天浄妙国土」とあって、白玉思惟像を作って亡くなった父の浄妙国土の上生を祈願していることがわかる。また、天保7年(556)銘弥勒仏倚像の銘文には「大斉天保七年正月廾五日盧)奴張慶賓為家人鳴銭造弥勒像亡者生天」とある。そこから亡くなった人の「生天」を祈願するために弥勒像を造像したことが理解できる。したがって、同じ「生天」を祈る文句がある興和2年の白玉菩薩思惟像は弥勒像であると比定してもよいだろう。半跏思惟像が太子思惟像ではなく弥勒菩薩像と推定できるもう一つの例は天保8年(557)銘白玉半跏思惟像である。その銘文に「大斉天保八年)歳次丁丑七月)戊戌朔廾日丁)巳曲陽県人長)延為亡妻陳外)香造白玉思惟像一区願令亡)妻長辞生永)絶六趣転報女)身道成聖果又)願己身居眷大)小龍華之期一)時悟道」という。これは「557年に曲陽県人である長延が亡くなった妻である陳外香のために白玉思惟像1dを造る。永遠に輪回を切って女子としても聖人の果報をなして、自分と大小眷属が龍華之期一時に道を悟ることを祈願します。」といい、このことから、この半跏思惟像は弥勒像であると推定することができる(注7)。中国の半跏思惟像は北魏から唐初期まで太子思惟像として造像されたが、弥勒菩薩としても造られたという説があり、前述した例を通じて半跏思惟像が弥勒像として認識して造像したことがわかるようになった。このような半跏思惟像の弥勒菩薩としての制作は主に東・西魏以後から多くなり、この影響は三国時代にも持たされて長川1号墳礼仏図をはじめ、統一新羅時代初期の仏像のうち、半跏思惟像と香炉(柄香炉)が表現された仏像は弥勒信仰と関連があると指摘できよう。

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