―107―3.弥勒信仰と柄香炉との関係このような弥勒信仰と香炉との関係は史料にも見ることができる。たとえば、『三国遺事』武王条には「一日王与夫人欲華師子寺至龍華山下大池邊弥勒三尊出現池中留驚致敬夫人謂王曰須創大伽藍於此地固所願也王許之詣知命所…額曰弥勒寺国史云王興寺(注8)」という。これは「百済の武王が夫人とともに獅子寺から帰るみちで龍華山の下にある大きい池から弥勒三尊が出現して驚く。夫人が請じてそこで弥勒寺(別名王興寺)を創建した」という。また、『三国史記』武王条によると「三十五年春二月王興寺成其寺臨水彩飾壮麗王毎乗舟入寺行香(注9)」という。これは武王35年(634)に王興寺(弥勒寺)が完成されて以後、王がいつも船に乗って寺に入り行香したという内容である。したがって、百済には弥勒三尊が出現、国が寺を創建して王が直接に行香するほど弥勒信仰が盛行していたことが理解できる。また、先述した神仙寺磨崖仏がある断石山は『新増東国輿地勝覧』に「一云月生山在府西二三里諺伝新羅金l信欲伐麗済得神剣隠入月生山石窟錬剣試断大石畳積如山其石尚存(注10)」ということから、花郎である金l信が断石山石窟で剣術を修練したところであることがわかる。一方、『三国史記』には「真平王建福二十八年辛未公年十七歳…独行入中嶽石堀斉戒告天誓盟曰…忽有一老人被褐而来…老人曰“吾無所住行止随縁名則難勝也”…建福二十九年…独携宝剣入咽薄山深壑之中焼香告天祈祝若在中嶽誓辞仍祷“天官垂光降霊於宝剣”(注11)」という。これは「金l信が17歳の時、中嶽に入って天に向かって誓約する。そのとき難勝という老人があらわれ秘法をつたえた。…翌年、また中嶽に入って香を焚きながら天に向かって誓約すると宝剣に霊力が降りた」という。そこで「難勝」というものは『大方広仏華厳経』巻23「十地品」第22に「菩薩摩訶薩智地有十…一曰歓喜…五曰難勝」と同経典第25に「如是菩薩住難勝地…菩薩住是地中多作兜率陀天王」ということから、菩薩十地のなか、第5地菩薩が難勝であり、難勝地の菩薩は兜率天王になることがわかる。したがって、「難勝」は弥勒菩薩であると考えられよう。一方、花eの団体である花郎徒は「龍華香徒」とも呼ばれている。ここで、「龍華」は「弥勒」を指称し、「香徒」は「釈迦の前に香を焚く群れ、すなわち信徒」を意味する。したがって、花e徒は弥勒を信仰する群れであり、このような花e徒の首領であった金l信は断石山に入って香を焚き、弥勒に願ったすえ、弥勒(難勝)を親見したことがわかる。このことから、断石山神仙寺磨崖仏に浮き彫りされた柄香炉をもっている供養者は弥勒信仰者である可能性が高い(注12)。
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