注『大知度論』巻第93(『大正新脩大蔵経』25巻710c)「天竺国熱。又以身臭故以香塗身供養諸仏 そもそも香炉は仏像の前に置くものである。にもかかわらず、仏像のなかに浮き彫りした理由■大西修也「朝鮮三国期の初期伝教と造像について」(『文化史学』6・7、1997、124頁)。■黄寿永「金堤出土 銅板仏像」(『仏教美術』4、東国大学校博物館、1981)。■これらの四点の仏像は大体に650年作と推定されている。■断石山神仙寺磨崖仏には巨大弥勒立像もあるが、供養者像が浮き彫りされている北岩の左岩での本尊は半跏思惟像であると考えられる。その理由は三躯の如来立像はみな両手をあげて半跏思惟像を指しており、二人の供養者もやはり半跏思惟像を向いて歩いているからである。■文明大「半跏思惟像の図像特徴と名称問題」(『観仏と古拙美』、芸耕、2003)。■『三国遺事』巻2紀異第2武王条。『三国史記』巻27百済本紀第5武王条。『新増東国輿地勝覧』慶州 山川条。―109―を立てて兜率天に往生することを願っているが、これは自身の努力、すなわち心を清めて十善行をなした後、叶われることが特徴である。そのため、弥勒信仰には個人の努力が要求されており、個人の積極的な供養または誓願をたてることが必要である。このような動機から柄香炉が表現されたと考えられる。兜率天に往生することを祈願して柄香炉を使用した例は日本でも見ることができる。『日本書紀』には天智天皇8年(669)10月甲子条に中臣鎌足が亡くなった後、天皇より金の香炉を賜った記事がある。この香炉についての具体的な記事は『藤氏家伝』からうかがえる。ここには「此の香炉を持ちて、汝の誓願の如く…兜率陀天の上に到り、日夜、弥勒の妙説を聴き…」といい、天皇が賜った香炉は柄香炉であり、鎌足がその柄香炉を手にして誓願の如く、兜率天に到って弥勒の妙説を聴けるようにとの願いが読み取れよう(注18)。おわりに以上のように三国時代から統一新羅時代初期にかかる初期韓国の仏像のうち、香炉があらわされた仏像は弥勒信仰と関連の像であることがわかる。さらにみな柄香炉で表現されていることが特徴である。これは弥勒信仰と柄香炉との連関性を示唆することであると言えよう。弥勒像での柄香炉の表現は弥勒信仰での兜率天に往生することの誓願のしるしである。このことは個人的でありながら積極的な供養者の姿を柄香炉が代弁してあらわされたと解釈してもよいだろう。及僧」。は特別に像の機能を強調したと考えられる。
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