―2―1742年版『失楽園』から受けた賛辞(例えばフィレンツェのカルロ・ダーティやナポリのジョヴァンニ・バッティスタ・マンゾ)に加え、18世紀になるとラコンブの辞書の翻訳や、ティエポロとも交友のあったフランチェスコ・アルガロッティのようなアングロマニアたちからの賞賛がある一方で、マガロッティやクワドリーオらの批判的な見解も登場する。そこには単に文学的想像力の点での批判のみならずローマ教会に対する宗教的な問題からの批判も含まれる(注5)。グラーフによれば、おそらく最初に『失楽園』の翻訳に着手したのはフィレンツェ出身のロレンツォ・マガロッティで、最初の第一巻の翻訳に着手したところで彼はその内容の貧弱さをこぼしている(注6)。最初に『失楽園』の翻訳を出版したのはパオロ・ロッリで、1730年にヴェローナのアルベルト・トゥメルマーニ書店から最初の六巻までを出版する(注7)。このとき彼はヴェローナのシピオーネ・マッフェイへ宛てた書簡も同時に掲載しており、当翻訳の意義への理解を求めている。そして1735年に全十二巻が完全な形でロンドンのチャールズ・ベネットから出版された後、1740年に再度ヴェローナのトゥメルマーニから出版地をパリと偽って巻頭挿絵を含む八折り版全十二巻が出版された。この版には全テキストのイタリア語訳に加え、別冊としてミルトンの伝記およびジョゼフ・アッディソンが『スペクテイター』(1712年1月12日号)に掲載した解題、およびロッリ自身が1730年の版に掲載した批評(主にヴォルテールが1726年にロンドンで出版した『叙事詩論』に対する論駁)がすべてイタリア語で掲載されている。この版の直後1742年にフォリオ豪華版が出版された。これらトゥメルマーニ書店から出版されたイタリア語版はパドヴァの異端審問所の検閲を受けずまた出版許可もないままに出版されており、従って表紙および表紙裏には「当局の許可のもとCon licenza de’ Superiori」の記載もパドヴァ異端審問所の出版許可も掲載されていない。つまり未認可の出版物であった。しかし当時の主要な文人はあまねくこれらの版の存在を知っており、好意的であれ敵対的であれ、実際に読んでいることが容易に知られる(注8)。1742年版の扉版画はジャンバッティスタ・ピアツェッタ(1683−1754)の原図をフランチェスコ・ズッキ(1698−1764)が銅版画に起こした《神の祝福を受けるアダム》(241×172mm)、そして表紙にはすでに他界しているアントーニオ・バレストラ(1666−1740)の《ウラニア》(100×87mm)が印刷され、献呈辞はヴェローナのガゾーラ家へ捧げられている。続いてパオロ・ロッリによる1729年12月付けのド・フルリ枢機卿への献辞、さらに1730年1月付けの同じくロッリによるシピオーネ・マッフェ
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