鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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終戦直後の福沢一郎作品に関する研究―114―――ニューヨークでの展覧会を手がかりとして――研 究 者:群馬県立館林美術館 学芸員 伊藤佳之はじめに終戦後、灰燼に帰した首都東京で、いち早く活動を再開した美術家の一人に、画家福沢一郎(1898−1992)を挙げることができる。彼は昭和20年(1945)11月の個展において、所謂「シュルレアリスム絵画」、すなわち反体制とみなされた滞欧作を展示し、官憲による戦時中の思想統制を強烈に批判した(注1)。また、同年10月の美術文化協会新作展、翌年6月の同協会展の開催に尽力するほか、多くの雑誌記事の執筆を手がけるなど、美術界の再出発に大きく貢献した。昭和21年(1946)12月、福沢は銀座の日動画廊で戦後2度目の個展を開催する。「ダンテ神曲地獄篇による幻想より」と題されたこの個展で彼は、裸体の人間像が荒涼とした大地の上で蠢く寓意的な群像表現を試みた。この作品群については、彼自身が以後何度も雑誌記事や対談等で言及しており、思い入れの深さを窺い知ることができる。現在、この個展に出品されたと推定される作品のうち、日本国内で現存が確認されているものは、板橋区立美術館蔵の《憂川(ダンテ神曲による)》〔図1〕、群馬県立近代美術館蔵の《ダンテ神曲より》〔図2〕(いずれも昭和21年(1946)の作)の2点を数えるのみである。国内にこれらの作品がほとんど残っていない最大の理由は、あると、作家自身が述べている。しかし、この件に関する作家自身の言及が幾つもありながら、これまで本作品群に関する本格的な追跡調査は行われてこなかった。さらに、これらの作品が「ニューヨークで展覧され」たという記述や証言についても、現在に至るまで確認作業はなされないままである。多くの人々に画家福沢一郎の再出発を強く印象づけた同展の出品作は、終戦直後の米国でどのように発表され、どのように受け止められたのであろうか。本研究は、以上の福沢一郎作品に関する未確認情報を検証するとともに、併せてニューヨークで展覧された福沢作品の展覧の反響から、当時の米国、特にニューヨークにおける日本美術紹介の一側面を考察するものである。「コールマンなる米軍将校によって買い占められ、アメリカに持ち去られた」からで

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