―115―1問題となる作例−個展「ダンテ神曲地獄篇による幻想より」の出品作を中心に昭和21年(1946)12月1日から4日まで、福沢は個展「ダンテ神曲地獄篇による幻想より」を、銀座の日動画廊で開催する。雑誌『アトリエ』と『みづゑ』がそれぞれ同展に取材した記事と図版を掲載しているので(注2)、出品作の幾つかの様相を窺い知ることが出来る〔図3〜5〕。土方定一によれば、「『世相図』という一枚の作品の外は小品」であったという(注3)。しかし、正確な出品点数、各作品の寸法など詳細な情報は明らかでない。先述の、現存が確認される出品推定作例2点と、同年代に制作された作品〔図6,7〕、そして上述の雑誌に掲載された図版のうち数点との特徴は、ほぼ一致する。裸体の人間像が蠢き、ときに集まり、ときに争い、またときに大地にはいつくばる。後に作家自身が回想するように、当時の世相は「生々しい悪のはびこる現実世界は源信の描いた地獄図絵さながら」であり、または「ダンテ地獄篇にみる焦熱地獄の世界を髣髴させた」であろう。その意味で彼にとって「人間に執着し 人間を描く事に於ては 戦後の混乱期が 最も精彩があった」のである(注4)。ダンテの『神曲』の絵画化ではなく、そこから連想される現実世界の寓意が、同展の出品作に込められていたのだといえる。これらの出品作をまとめて買い占め、米国に持ち帰った人物がいる。画集『蟹のよこばい』の年譜中、昭和22年(1947)の項には、「前年発表した戦後の混乱した世相を象徴する群像の作品を米人コールマンに譲る。彼はその後、日本絵画展をニューヨーク地下鉄画廊で開いた」とある(注5)。他にも「コールマン」なる人物が同個展の出品作を買い占めて米国に持ち帰った旨の、福沢自身による記述が散見される(注6)。福沢自身とコールマンなる人物との直接的な交流を示す資料は、今のところ発見されていない。あるいは画廊を通じての形式的な関わりであったかもしれない。ただ、福沢家にこのニューヨークでの展覧会のパンフレットらしきものが存在したことは、画集の年表に掲載された図版より確認できる。現在は所在不明のため、その内容を確認することはできなかった〔図8〕。個展を開催した日動画廊には、現在この作品売買に関する記録は残っていないとのことである。ただ、終戦直後に絵を求めて画廊を訪れた米軍将校についての記述は幾つかの書籍中にみられ、特に福沢作品を買い求めた人物については、「(前略)また別のある米軍情報将校は、専門家みたいな美術通で、国際画家の藤田嗣治を求める一方、個展で話題を投じた福沢一郎の「ダンテの神曲」シリーズを求め、大作ばかり二.三十点を入手した」とあり、記述が具体的であることから、画廊主の長谷川仁はじめ当
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