―119―15)。ところで、コールマンが米国に持ち帰った福沢一郎の作品群は、これまで述べてきたように、疑いなく日動画廊の「ダンテ神曲地獄篇による幻想より」の出品作であり、そのタイトルは「Hiroshima」ではあり得ない。また、福沢自身は戦時中の広島滞在経験を持っているが、やはり原爆の悲劇を直接体験したわけではない。さらに、「私の戦後の群像図はアメリカで展覧された際、これを購つて帰ったコールマンによつて『広島』と題し出品された作があつた事を後で知つた」と福沢自身が述べていることから、この「Hiroshima」なるタイトルはコールマンによって付与されたものであることがわかる(注16)。先に挙げた「米国の美術家が多くの『原爆』についての解釈を見せたが…」という記事の一文からも判るように、日本人と原爆、あるいは「Hiroshima」に代表される被爆地に対する当時の米国人の強い関心が窺える事例として興味深い。もっとも、福沢自身は、「作者たる私のあずかり知らぬところだが、しかし内容的に云えば、そのような混乱と壊滅の世相を表現したものだけに、別に差支えはない」とあっさりこの改題を容認している(注17)。なお、福沢一郎以外の作家による作品のうち、藤田の《猫》、田辺至の風景、少女像については、若干の記述がみられるものの、その内容に立ち入ったものはほとんどない。作品図版も、『北米新報』に中山巍の《東京の孤児》1点が確認されるのみである〔図12〕。個性を排した普遍的な人体による群像表現、彼特有の色彩、そして「Hiroshima」というタイトルによって、福沢の作品群は、同展の出品作のなかで最も注目を集め、高い評価を得たといえる。しかし、ヨーロッパから移住した美術家の活動によって活況を呈していた当時のニューヨークにあって、同展とその出品作はこれ以上に大きな話題を提供することなく、時代の波に呑まれ、忘れ去られてしまったようである。4 終戦後のニューヨークにおける日本「現代」美術紹介今回の調査では、「15人展」より以前に終戦後の米国内での「同時代」の日本美術紹介の事例を見出すことができなかった。もちろん、イサム・ノグチや国吉康雄のような既に米国において地位を確立していた美術家は、戦中・戦後をとおして活動を行っており、また苦しい収容所生活を余儀なくされた画家たちも、戦後は活動を本格化させてゆく。しかし彼ら在米日系人の画家たちが、同時代の日本美術の招来に積極的Yamamoto(山本正か?)の人物像、Hiromachi(先述の画廊誌にはこの名はない)の
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