―128―「光」が同時に存在すると考えられるのである。ては極めてナチュラリスティック(自然主義的)ないしはリアリスティック(写実的・現実的)な光が存在していると言える。しかしこれだけではこの壁画に存在する光について説明できない。スペクターも述べているように、「ヘリオドロス」において、主に後景に見られる左からの光が建築的な空間を特徴付けているのに対して、ヘリオドロスが天使たちに追われる場面を描いている前景には、上方からスポットライトのような光が当たっている。いわば第二の光源が存在するのである(注8)。ただし、この光はすでに述べたようなリアリスティックなものではない。この第二の光は前景のドラマティックな場面を強調するものと言えるが、左側にいる天使が左手に持つむちがその真下に位置する彼の背中に影を落としていないことや、ヘリオドロスの右足の下には強く影が差している一方で、その上にいる天使の影がヘリオドロスの上にかかっていないことなどの矛盾が見られるのである(注9)〔図6〕。また、「ヤコブ」についても、人物の影を見るとやはり、南窓から差し込む現実的な光を意識しているように見えるが、ヤコブの右足の下にある短刀には影が落ちておらず、写実的な表現とは言い難い〔図7〕。この光の問題に対し、スペクターは、このようにはっきりと影を描かないやり方はドラクロワ後期の特徴であると捉え、黒い影は存在しないとする彼の色彩感覚の点から説明している(注10)。しかし、それが先述した二つの光源があることの理由になるだろうか。むしろ、先ほどの観察から、この画面に用いられている光には、写実的な側面とは別の位相があることが推測される。つまり、超自然的あるいは非写実的な写真との関連ここで少し立ち止まり、ドラクロワにおける「写実性」について考えて見たい。この問題を考えるとき、当時の最新技術であった写真の技法との関係を見過ごすことはできない。興味深いことに、ドラクロワは1851年から世界最初の写真協会である「ソシエテ・エリオグラフィック」のメンバーだった(注11)。実際にさまざまな写真家たちと交流しており、みずからの制作に写真を活用していたこともわかっている(注12)。また、友人であるカヴェ夫人のデッサン論を高く評価したドラクロワは、デッサン教育において写真を用いることが大変有益であることを主張している(注13)。当時の写真技法であるダゲレオタイプが示している特徴とは、ドラクロワによれば、立体性を表現する光と影の正しい分布であった。この点において、ドラクロワは写実性を支える光と影の表現を十分に意識しながら制作をしていたと言えるであろう。
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