―129―しかし、すでに指摘されているように、この写真からの影響は限定的なものであった(注14)。彼が述べるところによれば(注15)、写真は全体の光景から一部を切り取って、付随的なものまでも均一に記録する。つまり写真は選択を知らないのである。だが絵画においては逆で、芸術家の観念を表現するための構図を組み立てるには、モデルから目的に役立つものだけを取り出さなければならない。そして、そこにおいては「想像力」が重要な機能を果たすのである。写真の客観性を評価していたという点から見ても、ドラクロワが写実性を意識していたことは間違いない。しかし、絵画的な「想像力」を重視する点から、ドラクロワは自らの作品において、光をありのままに、つまり「写実的」に描くことはしなかったのである。これは、たびたび引き合いに出される新古典主義の画家たちの表現と比較するとよくわかるだろう〔図8〕。アカデミックな制作方法からすれば、光は当然画面の中で整合性を持つものでなければならなかった。今、このアカデミックな光の表現を「写実的」とするならば、サン=シュルピス聖堂に見られる光の表現は「非写実的」と呼ぶしかないものである。ならば、絵画的な想像力をもって非写実的に描かれたドラクロワの光はどのような役割を持っているのだろうか。ドラクロワの他の作品で光が効果的に用いられている作品と言えば、ルーヴル宮「アポロンの間」に描かれた《大蛇ピュトンを打ち負かすアポロン》〔図9〕を見逃すことはできない。とりわけこの作品は、光の象徴性を表現しているものとして重要なのである。太陽神アポロンの背後には光が煌々ときらめいているが、この光はけっして写実的な光ではない。この天井画で示されているのは「光と闇の戦い」である。つまり、ここでの光は「象徴的」なものとしてあらわされているのである。ドラクロワが「アポロンの間」に取り組んでいる時期は、ちょうどサン=シュルピス聖堂壁画の制作期間と重なっている。この時期のドラクロワの関心事であった「光と闇」のシンボリズムは、聖天使礼拝堂において「聖ミカエル」にあらわれている。天井に描かれた「聖ミカエル」には天使の背後に光源があるが、それがちょうど真上からの光として下の壁面に注いでおり、これによって、「ヘリオドロス」に見られるスポットライトのような光の存在が正当化される。つまり、この画面における2つ目の光源は、「聖ミカエル」から降り注ぐ、現実には存在しない超自然的で象徴的な光なのである。しかし、この光は超自然的なものであるがゆえに、影は写実的に描かれる必要がない。このようにしてみると、ドラクロワはサン=シュルピスの壁画に見られる第二の光において、「想像力」にもとづき、光が持つ象徴的な側面をつけくわえたと言えるのではないだろうか。
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