鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―130―「写実性」を用いていた。つまり、技法的には印象派につながる革新性によって新古このことは、新古典主義からロマン主義、そしてレアリスムを経て印象主義へと進んでいくなかで変化していく「写実性」のあり方と比較すると興味深い。ドラクロワはちょうど、ロマン主義からレアリスムへの移行期間において、きわめて限定的な典主義的な描写の「正確さ」とは袂を分かっており、また、「想像力」すなわち絵画的な虚構性を捨て去っていないという点で、「目に見えるものしか描かない」というようなレアリスム的写実性には与していないのである。そしてこのことは、ドラクロワのなかで、当時のテクノロジーである「写真」に対する洞察から導き出されたのであった。このような表現によって、ドラクロワはルネサンス以来の写実性を乗り越え、独自の表現方法に達したのである。さらに言えば、ドラクロワの「写実」と「想像力」の観念は、ラファエッロとその伝統の継承者たらんとしながらそれを模倣しかしない当時の画家たちに対する批判によって鍛え上げられていたのである(注16)。ドラクロワはラファエッロに代表される伝統と対峙するにあたり、単なる模倣ではないやり方で自らの画面を作り上げており、そこに現代的な感覚を持ち込んでいる。そして、写真や同時代の画家への批判に見られるように同時代的な視点を強く持っていたと言えるだろう。「建築」と「自然」への関心もうひとつ写真とのかかわりで興味深いことがある。「ヘリオドロス」、「ヤコブ」の舞台背景はそれぞれ「建築」と「自然」であり、主題の上で二項対立的に配置されている。この二つの領域は、当時の写真がもっとも関心を持っていたテーマであった。1851年、フランス政府の歴史的記念物委員会は、5人の写真家にフランス各地の風景や遺跡の撮影を委嘱する。この、いわゆる「ミッション・エリオグラフィック」は、写真の持つ「記録性」という特性に着目して、時間の流れや近代化とともに失われゆく風景や建築物を記録するというものであった(注17)。彼らが撮影したフランスに中世から残る教会建築などの遺跡群の記録は、建築物が持つモニュメンタルな質感や構図といったものによって、画家をはじめとする当時の人々にも力強いインパクトを与えたものと思われる。このような「ミッション」は、フランス革命時の歴史的建造物の破壊に対する反省という動機だけでなく、当時の考古学的関心によっても促されたであろう。ナポレオンのエジプト遠征以来、フランスでは古代遺跡に対する考古学的な関心が呼び起こされた。美術の分野においても考古学的な正確さを目指す傾向が見られたが、ドラクロ

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