―131―ワもまた例外ではない。「ヘリオドロス」に描かれた建築が実際にエルサレムにあったものから着想を得ていることはすでに指摘されている通りである(注18)。若い頃には中世の建築物によってロマンティックな詩情をかき立てられることもあったドラクロワにとって、「建築」はひとかたならぬ関心を寄せる対象であり続けた。1852年9月20日の『日記』には、建築は理想そのもので、建築にあってはすべてが人間によって理想化されているという記述が見られる(注19)。また、建築に見られるような直線は自然には存在せず、人間の創造に他ならない、とも述べている。これは、サン=シュルピスの壁画に取り組んでいた当時、ドラクロワが「建築」と「自然」を対比的に捉えていたことを示している。また、彼が構想していた美術辞典には「建築」の項がある(注20)。ドラクロワはそこで今日における建築の退廃について触れつつ、自らの建築観を披瀝している。彼によれば、建築はその時代の「趣味」を反映したものであり、したがって現在まで続いてきた建築の伝統を無視した当時の安易な「ゴシック・リヴァイヴァル」は非難すべきものとされる。これは過去のものを単に模倣することを戒める彼の芸術観と同じものであろう。いずれにせよ、ドラクロワが抱いていた建築観は建築様式の同時代性を重視したものであった。もうひとつの領域である「自然」はどうか。バルビゾン派などの動きと軌を一にして、写真家たちは自然にも関心を持っていた。キネやル・グレイ、マルヴィルらがフォンテーヌブローやバルビゾンで撮影した樹木には、自然への鋭い眼差しがうかがえる〔図10〕。ドラクロワ自身、サン=シュルピス聖堂壁画を手がけている時期、パリ南東の町シャンロゼー近くにあるセナールの森に赴き、木々を写生する日々を過ごすことが多かった。デッサンや日記の記述から、「ヤコブ」の中心に描かれているような樫の木に対してドラクロワが強く心を動かされたことがわかる(注21)。このような自然に対する鋭敏な感性は、写真家たちも含めた当時の芸術家たちのあいだで共有されていたものであったと言えるかもしれない(注22)。「ヤコブ」のためのスケッチ(Louvre, RF9431)〔図11〕には、「修道院長の樫」と呼ばれる木が描かれているが、そこには「5月17日」「アキレウスとヘクトルの闘いを見るユピテルとして私はそこにいた」の書き込みが見られる。この日付は1850年5月17日を示すことが『日記』からわかる(注23)。そこにはセナールの森でクモとハチの闘いを見たときの心境が綴られており、ドラクロワが自然の中に、「ヤコブ」に見られるような闘いの光景を見出していたことがうかがえる(注24)。このことは、作品の形成において「自然」が重要な役割を果たしていることを示している。
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