黒田重太郎と日本におけるキュビスム受容―137―研 究 者:京都市美術館 学芸員 清水佐保子はじめに日本の近代美術に対するヨーロッパ美術、とりわけフランス美術の影響はしばしば指摘されるところであるが、キュビスムの影響についてはこれまであまり検討されてこなかったのではないだろうか。そもそも日本では、1910年代のキュビスム、とりわけピカソやブラックの分析的キュビスムはあまり浸透せず、むしろ1920年代の新古典主義の下で折衷化されたキュビスムの影響が強かったため、前衛美術の影響を重んじるこれまでの研究においては、キュビスムの影響がいささか過小評価されてきたのではないかと思われる。周知のように、フランスでは第一次世界大戦を契機に保守化の動きが目立ち始め、「秩序への回帰」が叫ばれるようになる。この傾向は美術界にも影を落とし、堅牢な画面構成を旨とする新古典主義の台頭を招いた。そうした中、印象派以降の感覚主義に反旗を翻し、論理と構築性を重んじたキュビスムを評価する動きが現れるが、これらの動向を日本へ伝えるのに重要な役割を果たしたのが、洋画家の黒田重太郎(1887−1970)である。黒田は、1916年から18年、および1921年から23年の二度にわたって渡仏し、一度目はアカデミー・コラロッシ等で、二度目はアカデミー・モンパルナスで学んだ。そして、後者における黒田の師であったのが、かつては「サロン・キュビスト」の一員であり、この頃には新古典主義の作家・批評家として知られていたアンドレ・ロート(1885−1962)である。筆者は以前、黒田のキュビスム論(注1)を含む日本のキュビスム批評について論じたことがある(注2)。そこで述べたように、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・サルモン、モーリス・レイナルといった、フランスにおけるキュビスムの擁護者の言説を駆使する黒田のキュビスム論は、フランス本国での動向をかなり正確に跡づけた上で、それらを1920年代の地点から歴史化するものであった。また、彼の形式主義的な記述は、1910年代の主観主義的なキュビスム理解の克服に貢献している。先行するキュビスム論に抗って、黒田が新たな観点からの論を提出することができたのは、キュビスムが新古典主義へと変貌する過程を自ら体現しながら、芸術における理論や法則を重視することで感覚主義を克服せんと試みる、ロートの作品と言説にいち早く依拠していたからに他ならない。上記の点を踏まえて、今回の調査報告は、日本におけるロートの紹介と受容、およ
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