―140―「若しもロオト氏に就くなれば、恐らく私がこれ迄曲みなりにも私のものとして守つが、実のところ作品が日本で初めて展示されたのは、「特別陳列」の4ヶ月前に当たる1923年6月、第4回中央美術社展覧会(『中央美術』の発行元である中央美術社主催の公募展)においてであった。『中央美術』掲載の第4回展予告には、「參考として現フランス畫壇の鬼才として新藝術の急先鋒たるアンドレ・ロオト、ロオゼ・ビツシエル兩氏の新作を陳列すべし這は日本には初めての將来にして新藝術研究に資する事大なるべきを確信す」とあり(注11)、この時すでにロート=前衛という図式が作り上げられていたことがうかがえる。この陳列に合わせて、黒田重太郎はロートとビッシエールを紹介する記事を執筆しているが、その中でロートに師事するに至るまでの心境を次のように述べている。てゐたものを、たとへ一時にしろ根本から覆へされるだけの覺悟が要る。その覺悟が出來ないならば、寧ろゲラン氏のやうな(中略)人に就く方が、私のこれ迄やつて來たものを其儘こはさずにのばしてくれるだらう」(注12)。もともと、聖護院洋画研究所や関西美術院で浅井忠や鹿子木孟郎の薫陶を受け、アカデミックなデッサン教育を身につけていた黒田にとって、「私のものとして守つてゐたものを……根本から覆へされる」というのは、当時の偽らざる気持ちだったに違いない。だが、一度目の滞欧期に私淑していたシャルル・ゲランを引き合いに出しながら、ゲラン=保守/ロート=革新という図式を強調することによって、「前衛としてのロート」像を浮き彫りにしてみせたのは、まぎれもなく黒田の意識的誘導に他ならない。逆に言えば、中央美術社展覧会の予告や黒田の記事が前もって存在していたからこそ、二科展の「特別陳列」において、ロートが「世界の美術界の反官學主義的運動に君臨する現代佛國獨立派の代表的な作家」として登場することが可能になったのである。このように登場したロートを、日本の画壇はどのように受け入れ、あるいは拒否したのだろうか。残念ながら、関東大震災のため初日に中止された「特別陳列」は、ほとんど人目に触れることもなく、したがって展評もごくわずかしか残されていない(注13)。ロートに関する批評は、在外会員として出品を行うようになった第11回展(1924年9月)以降、ようやく眼につき始める。好意的な批評も存在しているものの、どちらかといえば批判的な批評の方が多い。その傾向は、おおまかに言って次のふたつに分けられる。ひとつは、情趣に欠けた理論先行の作家として敬遠するもの、もうひとつは、そもそも取るに足らない二流の作家と断じるものである。まず、前者については、「アンドレ・ロオト氏のものには一向感銘がない」(畑耕一)(注14)、「[筆者註:ビッシエールと比較して]どうもロートの方には理屈が多過ぎま
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