鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―141―すね」(川路柳虹)(注15)、「ロオトは冷たくして小器也」(木村荘八)(注16)、といった例が挙げられる。こうした批判の根底にあるのが、芸術を内面的感情の表出と見なす主観主義的立場であるのは言うまでもない。だが一方で、黒田が度々ロートの文章を引きながら、フランス同時代美術に対する自らの解釈を正当化してきたことが、かえって「ロート=理論先行で感情軽視の作家」というイメージを作り上げてしまったのは否めない事実であろう。一方、後者については、「ロートは木っ葉武者だ。もともと素質の庸劣な人である。表面の理屈でこね廻してゐるに過ぎない。本質から來るものは凡庸だ」(萬鉄五郎)(注17)、「まあ學生向の大甘物ですな」(牧野虎雄)(注18)といった例が挙げられる。だが、最も激烈な批判は、新興美術の代表的作家である村山知義からもたらされた。第2回アクション展の展評の中で、村山は次のように言う。「日本の畫壇の歴史は奴隷の歴史である。殊に二科はそれである。近くは田重太郎氏などがロートみたいな三文のねうちもないものを堂々と模倣して惡例を殘すし」(注19)。そもそも、1920年代のフランス美術が新古典主義を標榜するに至った今、フランス美術はもはや「世界の美術界の反官學主義的運動に君臨」してはおらず、したがって未だフランス美術に固執する二科会の同時代美術紹介は、ダダや構成主義などの前衛美術を欠いた微温的なものにならざるをえない。しかも、「戰争が直接的に與へた外部的な影響は云ふに足りないとしても、それが内面的に齎した效果は意外に深刻なものがあつたのである。事實それ以來彼等の唇頭に煩はしいまで上された言葉は『佛国藝術の傳統』であつた」(注20)と述べることで、第一次世界大戦以降のフランスにおける伝統回帰を的確に指摘していた黒田が、ロートを新古典主義の作家とみなしながら(注21)、それでも前衛の側に引き寄せようとした矛盾を、村山は鋭く見透かしていたように思われる。3.黒田重太郎をめぐる同時代批評二度目の滞欧後、黒田は二科展の第10回展および第11回展に、対象を幾何学的形態に還元するキュビスム的なスタイルの滞欧作を出品している。第10回展の出品作は、関東大震災による臨時閉会のため、ほとんど人目に触れぬままに終わってしまったが、翌第11回展の出品作はかなりの注目を集めたらしく、多くの展評で取り上げられている。それらの中で目立つのは、黒田をロートと比較するパターンの論調であるが、その理由として、黒田がパリでロートに師事していたという周知の事実だけでなく、黒田とロートの作品が同じ展示室で隣り合わせに並べられていた、という点を指摘することができる(注22)。つまり、二科会あるいは黒田側が、あえて両者を比較させる

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