鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―142―ように仕掛けたとも言えるわけである。もっとも、この企みが黒田にとって有利に働いたとは言いがたい。そもそもが「師匠=ロート」と「弟子=黒田」の比較であるから、どうしても黒田の方が稚拙に見られがちである。そうした傾向は、石井柏亭の「ロオト氏を見て田重太郎氏の諸作へ來ると其處に硬さがあり餘裕のないことが感じられるしまた素描の確實さの足らないことも感じられる」(注23)という一文が典型的に示している。その上、画家としてのキャリアを積み重ねる前に、『中央美術』等に発表した原稿の方が有名になってしまった黒田には、常に「新思潮の紹介者」あるいは「理論家」というレッテルがつきまとっており、それが作品の評価に対しても暗い影を落とすことになっている。「g田重太郎氏は一かどの美術記者と思はれる。畫技の方面では第一回の洋行でぐぢやぐぢやしたものを輸入されましたが今度又ロート風を輸入された事は御苦勞でした。僕は氏の仕事に就て今のところ別段言ふ事を持つてゐません」(萬鉄五郎)(注24)、「明徹な氏の論評は常にわが畫壇を稗益する處が多いと思ふがその作品はまだロート師との間に大分の距離がある様に思ふ」(遠山五郎)(注25)、「g田重太郎氏の作品は學究的な態度で描いてあります。ですから作品に素直に心が出ず型が出て居ます」(中川一政)(注26)といった論評からは、黒田の言説に作品が追いついていないという「共通認識」がうかがえるであろう。ロートの言説に依拠してキュビスムを解釈し、次にロートの経歴を新古典主義の文脈で紹介した黒田は、最後にアカデミー・モンパルナスでロートに学ぶことによって、ロートの新古典主義化されたキュビスムを作品の形で日本に伝えた。だがそれゆえに、黒田自身の作品は、誉められるにせよ貶されるにせよ、常にロートとの距離を測る形で語られ続けることになるのである(注27)。おわりに1910年代初頭におけるキュビスムの盛衰そのものは、未だ複製と批評でしか目撃されず、しかもそれらは白樺派的な主観主義の下にあった。しかし、1920年代に入りキュビスムが新古典主義へと変容する過程は、ロートという格好のサンプルを得た二科展の海外作品陳列や黒田の批評活動を通して、ほぼリアルタイムで伝えられることになる。この伝達が二科会や黒田の思惑の下に行われていたこと、そしてそのことが逆にロートや黒田の評価を決定づけたことは、これまで見てきた通りである。今後は、今回あまり掘り下げることのできなかった、ロート自身の作品および言説の分析を進めるとともに、ロート=黒田とは異なるラインを通じた、キュビスム受容

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