―148―2.ストラーダのムーサエウムMusaeum de Strada「ストラーダのムーサエウム」の語自体は、すでに父ヤーコポが自己の著作が生まれる場と位置づけ、少なくとも1550年代から使用されている(注5)。この「ムーサエウム(musaeum)」の語には本来、詩や音楽、自由学芸が集約される場、及び知識人たちの集まる場という2つの定義が包含されていた(注6)。この定義は古代の貨幣や様々な著作に着想を得、自らの作品を制作したストラーダ父子の活動と類似性を持つ。彼らの活動の場とは、第1に、書籍やコイン、美術作品等が所蔵された帝国及びストラーダ家の蒐集室、第2に様々な人物が訪れ、多種多様な知識が集まる場であったストラーダ父子の居室及び図書館、第3に、古代の皇帝を中心とする肖像画や建築に関する素描集、機械仕掛けの道具の設計図などが生産された工房である(注7)。すなわちストラーダ父子にとって作品を制作するための事物の蒐集、思索、生産という一連の活動の場が「ストラーダのムーサエウム」であったと考えることができよう。3.『神と人間のシュンボルム集』の成立過程『シュンボルム集』の制作時期である1590年以降、ハンガリー国内の支配権を巡り、オスマン帝国との軍事的な緊張状態が続いていた(注8)。また1591年のニュルンベルク市議会の公文書の中では、市が所有するオクタヴィオのインプレーサの付いた著作に関心を示していることが明記されている(注9)このことからも、政治の場におけるインプレーサを含む表象の重要性についての認識の高まりを読み取ることができよう。実際、帝国内外の諸君主に贈られたインプレーサ集の手稿本は、1593年から1608年まで続く、いわゆる「長期トルコ戦争(Lange Türkenkrieg)」に際して全キリスト教国家を一つの共同体として認識させ、「トルコ銭(Türkenhilfe)」といわれる軍事的援助を求めるための贈答品として機能していた。すなわち、この時期に神聖ローマ帝国で生産されるインプレーサ集は、イタリア等で制作された従来の著作とは異なり、単に宮廷の知的遊戯としての側面のみならず帝国を中心とする中央集権的な共同体を表象する実践的な役割を果たしたのである。またオクタヴィオはプラハ国立博物館所蔵手稿本VI−2277番とヴァチカン教皇庁図書館所蔵手稿本Ottab. lat. 1271番の二つの初期の手稿本の中で二点の制作意図を明記している。それは第一に、インプレーサ集を通して権威者が古代の伝統を認識すること、第二に君主の家系の繁栄のために、同時代の記憶を次の世代に継承するための記録として留めておくことである(注10)。彼のインプレーサ集の特徴の一つは、単に
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