―158―「言が肉となる」という章句を強調する役割を担っていると解釈できる。「アナスタシス」のダビデとソロモンから想起される受肉の概念、これらがヨハネ福レナイオスに端を発するものといわれる(注17)。代表的な序文には、「マルコ福音書は高みからもたらされるイザヤの預言の言葉に始まり(以下略)」(注18)、「(ルカ福音書は)祭司ザカリアが神に香をたくところから始まる」(注19)とマルコ福音書とイザヤ、ルカ福音書とザカリアが結びつけられている。現状の「テオファニス福音書」に序文は記されていないが、中期ビザンティン時代において、序文を持つ福音書は珍しいものではない(注20)。制作者はこれらの序文を当然知っていただろうし、福音書冒頭に描くモティーフのインスピレーションのひとつとなったといえるだろう。次にヨハネ福音書に組合わされるダビデを見ていこう(注21)。ヨハネ福音書冒頭のテクストにダビデに関する言及はない。ヨハネ福音書にダビデが採用されたのはなる。ダビデはキリストの直系の先祖と考えられており、マタイ福音書冒頭は「ダビデの子、イエス・キリストの系図」から始まり、キリストに至る14代の系図を記述する。それゆえダビデはビザンティン世界においてキリストの人性を象徴する図像とされ、マニオンも述べているが、左頁に描かれていた「アナスタシス(キリストの冥府降下)」も考慮しなければならない。9世紀以降、ダビデと息子ソロモンは、冥府からアダムとエヴァを引き上げるキリストとともに「アナスタシス」に必ず描かれる人物である(注22)。詩篇72編のダビデによるソロモンへの祈りの中の「王が羊毛に降る雨となり」(72:6)という章句は、キリストの受肉の予型と解釈される(注23)。キリストの先祖であるダビデが表象するキリストの人性、ヨハネ福音書冒頭に描かれる音書冒頭の「言が肉になる」と結びつけられている。最後にマタイ福音書とエレミヤを見ていこう。マタイ福音書にエレミヤが組合わされる理由をマニオンは次のように説明する。エレミヤは、西方ではペトロとともに「使徒信条」に描かれる人物であるとして、14世紀のフランスの写本「ベリー公の時{書」(注24)を例に挙げる。時{書のエレミヤの持つ巻物には、エレミヤ書29章12節と同書10章12節「御力をもって大地を造り(以下略)」に基づくテクストが記されている。「偶像とまことの神」と章題がつけられるエレミヤ書10章は、異教の神からの訣別と万物の創造主である神への賛辞を語る。神が受肉することによって、世界は再創造される。したがってビザンティン典礼においても「キリストの降誕」とエレミヤの章句が結びつけられるのは自然なことである、とマニオンは説明するが、論理は飛躍しているように思われる。そもそも、フランス・ゴシックの14世紀の写本を例にことばぜだろうか。ヨハネ福音書1章は「言が肉となった」とキリストの受肉を抽象的に語
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