鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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d)No.702、703アメリカ合衆国在住日本人作家No.733フランス在住日本人作家〔資料2〕No.702、703は、ロサンゼルスにあった日本人写真家クラブ、Japanese CameraPictorialists of Californiaのメンバー4名の作品計7点である。彼らは1920年代後半から30年代まで、パリを含め世界各国の国際写真サロンに積極的に集団で応募し、活躍していた。高桑のCJPも、彼らのクラブ名に倣っている。―173―月号)タイトルに、高桑は「燦と輝くパリー・サロンの戦果」と書き、全入選652点中、日本からは86点が入選してフランスに次ぐ成績だったと高らかに記した。そこに列記された40名の入選者リストのうち、25人がこのリストと重なっている。このリストは、SFP主催のサロン展の応募作品である可能性が極めて高い。パリ・サロンでは、応募作は会期終了後に返却するが、返却分の輸送料を出品者があらかじめ納めていない場合は、返却しないという規定があった。高桑が日本からの応募作品をとりまとめて送った時、人数分の返却費も支払っていなかった可能性はある。詳しい書類などが確認できないため推定になるが、返却料未納などの理由で返却されなかった応募作品が、このコレクションだと考えられる。CPJのラベル以外のものが混ざっているのも、そのためであろう。高桑が国際サロン展出品を執拗に奨励していた理由にも、注意しておきたい。それは、「非常時局を認識し、写真が国威発展のお役に立つ」(『カメラ』1938年5月号巻頭「写真の用」)ためだった。高桑は世界各地の国際サロンで日本人が多数入選することを「国民外交」「写真外交」「写真報国」と言い換えて、奨励したのである。この時『写真週報』などに代表される戦時報道、国策宣伝における写真の役割が増大し、『カメラ』の読者のようなアマチュアの芸術写真愛好者たちの制作は、「時局」にそぐわない、写真材料の無駄であるかのように言われかねなかった。それに対抗する理論武装として、高桑はこのような論理を編み出したのだと思われる。Dennis Reed氏の日系写真家先行研究によると、SFP所蔵のうち3点は、作家の手元に残されたものと同一の作品の別プリントだった。このリストはすべて1933年のトロイのサロンへの出品歴があるが、制作年は1925年−31年と見られる。これらの所蔵履歴は今回はつきとめられなかった。No.733は、中山岩太のパリ在住時代(1927年)の代表作2点のヴィンテージプリントである。状態もよく、高い技術がうかがわれる傑作である。現在、この2点のヴィンテージプリントは国内で確認されていない(1996年に乾板からニュープリントが作

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