鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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4十七世紀日本絵画における中国像―178―――狩野山雪「藤原惺窩閑居図」(根津美術館)を例に――研 究 者:東京大学 東洋文化研究所 助教授  板 倉 聖 哲1 十七世紀日本における中国絵画受容の位相十七世紀日本、江戸時代初期は幕藩体制が確立され、諸制度が整備された時期であるが、画壇においても江戸狩野を中心にした御用絵師の制度が形成された。この時期、中国絵画に対する関心は引き続き高く、非常に多くの中国絵画が流通していたことが現存作品からも窺われる。室町時代以来、その頂点に君臨し続けたのが足利将軍家の東山御物であることは言うまでもないが(注1)、他方、彼地の新たな画壇の動向も、時間的にそれほど隔たることなく日本に至っていたのである。当時の画壇の領袖、狩野探幽(1602−1674)が描き続けた縮図の内、晩年のもののみが所謂「探幽縮図」として伝存しているが、それだけでも実に膨大な量であり、その中には現在では既に失われてしまった図様も少なからず存在する(注2)。縮図には、明時代中期に活躍した沈周(1427−1509)・文徴明(1470−1559)・仇英(?−1552?)・唐寅(1470−1523)といった明四大家はもちろん、後期の文彭(1498−1573)・文嘉(1501−1583)、さらには明末文人画壇の領袖、松江派の董其昌(1555−1636)や明末蘇州で活躍した花鳥画家、周之冕といった十七世紀に活躍した画家の名前も見出せる。原図の真贋は判断しかねるものの、探幽たちが実見し得た作品は室町時代の伝来より新渡のものが大量に含まれていたことになり、ほぼ同時代に活躍した中国画家たちの作品をも知り得たことは確かであろう。又、中国では明末・万暦年間(1573−1620)に質量共に最盛期を迎えた出版界の盛況を反映して、通俗小説の挿絵本、複製名画集である画譜類、伝記・歴史故事の挿図本など、様々なものが版刻出版された。探幽は『帝鑑図説』『海内奇観』を初めとするこれらの版画の図様の一部も縮図に写し取っている。これら新渡の図様に依拠した完成画は探幽を含む狩野派に限らず俵屋宗達・宮本武蔵(1584−1645)らにも認められることから、当時の画壇において関心が高かったと考えられる。さらに、それは単に図様のみの問題ではなく、理論・絵画史観についても相応の知識を得ていたことがわかる。鈴鹿家に所蔵される京狩野家古文書中の「中国画史画論書目録」は狩野山雪(1590−1651)から永納(1631−1697)・永敬(1662−1702)辺りで収集・蓄積された文献を列記したものだが(注3)、ここには明末清初に出版された画譜類や莫是龍(1539−1587)・董其昌・陳継儒(1558−1639)ら明末文人の著作が含イメージ

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