―179―まれている。つまり、十七世紀日本の絵画鑑賞界では文献・画像の双方から得た知識から明末に至る中国画の展開をある程度正確に通観出来たことになろう。2狩野山雪の特殊性当時の画壇において、狩野山雪の中国に対する関心・憧憬は当時の画家たちに比べて非常に強かったと評してよいだろう。山雪本人が草稿を記し、息子の永納が編した質はそれを象徴していよう。山雪の描く漢画題はそれ以前に必ずしもポピュラーではないものにまで及んでおり、「盤谷図」(個人)、「十雪図屏風」(ボストン美術館)、「蘭亭曲水宴図屏風」(京都・随心院)などの現存作品を見ても、実に様々な要素を含んでいることが認められる。山雪の造形の多様さは当時でも際立っている。代表作の一つ、天球院方丈障壁画では、伝統として既に獲得された形態を強調して、理知的な構成の中に嵌め込み、様々な意味を再構築してみせる(注4)。奇矯なまでに歪曲した巨幹を見せる旧天祥院「老梅図」(メトロポリタン美術館)ではその緊張感はくずれ、マニエリストとしての個性を強烈に露出させている。元時代の道釈人物画家、顔輝に倣った「寒山拾得図」(真正極楽寺)の不気味な笑みもグロテスクな形態感覚を象徴するものと見なすことが出来よう(注5)。明代花鳥画のパターンを用い、中世やまと絵屏風の金銀加飾、工芸的技法をも援用した「雪汀水禽図屏風」(個人)では、月夜に照らされた冬の汀を冷徹な感性で描き出している(注6)。金地水墨の「洛外図屏風」(京都国立博物館)ではきらびやかな「洛中洛外図」の賑わいと対極にあるような、寂寞とした洛外の情景を幻想的に表している(注7)。その画の多様性故に、彼は狩野派の展開において「異端」とされ「奇想派」の一人にも数えられるのだが(注8)、『本朝画史』草稿の著者でもある山雪自身は自分こそ正統な嫡子と自認していた。絵画史の主流とは乖離した、歪んだ正統派の意識がこうした多面性を生み出したと言えるのかも知れない。その意味で、正統派を自覚した山雪は、同時代の画家たちとの共有と差異の構図の中で差異化を意図的に行っていったと考えられる。そうした側面を支えたのが、京都の儒者・詩人らを中心とした文人のネットワークであり、制作者・鑑賞者によって支えられるコンセンサスが山雪画の持つイメージの複層的な構造を支えているのである(注9)。イメージ『本朝画史』画題において記述される、中国像に対して正確さを求める学求的な資
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