鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―180―(1683−1657)の賛が認められる。まず最上には杏庵の賛詩、「題狩野平四郎所画西湖之貼扇、蓋道円詩以称焉、余漫書之与二子」(『惺窩先生文集』巻5)がある。元和5年(1619)狩野山雪が30歳で描いた「西湖図扇面」に、惺窩門3 「藤原惺窩閑居図」(根津美術館)ここでは「藤原惺窩閑居図」〔根津美術館 図1〕を取り上げたい。本図は一見して「杜甫草堂図」〔個人 図2〕と同様に詩画軸形式で描かれた書斎図であり、洛北市原にあった北肉山荘でくつろぐ藤原惺窩(1561−1619)の姿が描かれている。藤原惺窩は江戸儒学の祖と称される。名は粛、字は斂夫。号は惺窩のほかに柴立子・北肉山人など。兵庫県播磨荘の生まれで、父為純は歌学の名門、冷泉家の後裔。幕府の官学も京学も共にその門流から生まれていることからも江戸儒学における位置の重要性が知られる。本図の上方には、惺窩門下の四天王の内の二人、堀杏庵(1585−1642)と林羅山北肉峯頭世外身、本朝始發六経真、回垣松竹一庭草、即是先生楽意春。杏菴正意 拝賛 「杏庵」(朱文円印)「正意」(重郭白文方印)があり、その下には、羅山の賛詩、道学勃興桑海東、高標清節嘯松風、背山別業似濂水、庭艸生々意思中。後学羅浮散人賛 「羅山」(白文方印)が見える。この内、後者は「惺窩先生像」(『林羅山詩集』巻72)に見えることから、寛永16年(1639)頃に制作されたことがわかる。つまり、本作品は師の惺窩没後20年目に制作されたということになる(注10)。この前提になるのは、山雪が長期にわたって密接な交流を持っていた惺窩をはじめとする儒者ネットワークの存在である。惺窩と若い山雪との関わりを示すものとして

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