鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―181―下の那波活所(1595−1648)が詩を詠んだので、惺窩も詠んで山雪と活所に与えたというもの。又、羅山は寛永9年(1632)上野忍岡に完成した孔子廟(後の湯島聖堂)で行う釈奠用に「歴聖大儒像」の制作を企画、杏庵と相談の結果、松花堂昭乗(1584−1639)に依頼するも、辞退されたために、次に推挙され制作に当たったのが山雪であった(東京国立博物館・筑波大学附属図書館)(注11)。惺窩の文集は寛永4年(1627)既に羅山編の正編5巻と菅得庵編の続編3巻の形で刊行されており(『惺窩文集』)、正編には杏庵の序がある(同年春正月)。ただこれには字句の脱誤遺漏が多いため、惺窩の息子の為景(1612−1652)が手筆遺稿を整理し、惺窩門下たちの協力の下、全15巻を編纂、寛永16年7月には杏庵に校閲を求めている(「藤原為景朝臣遺文」)。寛永21年(1644)に羅山は為景の求めに応じて跋を書き送っている(「題惺窩先生集後」『羅山先生文集』巻51)。慶安4年(1651)には後光明天皇の御製序を賜り、寛文11年(1671)には版行するばかりという状態であったが、副本もろとも火災の難に遭ってしまった(藤原為経「重修惺窩先生文集序」『惺窩先生文集』)。つまり、本図が描かれた寛永16年は為景が杏庵に校閲を求めた年でもあり、惺窩を顕彰するこうしたプロジェクトの進行途上で生み出されたのがこの惺窩のイメージということになる。描かれた北肉山荘を惺窩が洛北市原の山中に設けたのは慶長10年(1605)夏秋頃とされる(「惺窩先生行状」『羅山先生文集』巻40)。この「北肉」は「背山」の「背」字を分解したもので、明末の林兆恩が説く艮背心法に拠るという。現状では石碑が建ち、石垣や古井戸が残るばかりだが、羅山の「北肉山小絶二首并序」(『羅山先生詩集』巻10)には、北肉山地、為洛水之源。後山前水。有其松峯桂壑、紅泉碧磴、石泉千聲、雲霞万色。高師惺窩先生ト幽居、賛成其志。当時召門弟、逍遥于此。(後略)とあるように、実景においても前に水景が広がっていた。とはいっても、手前の水面と庭内に伺える山の勾配などに矛盾が認められ、画中の景観が実景を忠実に反映させたものだと見なすことはできない。形式的に五山禅林をより強く意識した上方の賛詩と同様に、山雪はこの図を描くに当たって、複数の詩画軸の図様を念頭に置いたものと考えられよう。

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