―182―〔常盤山文庫 図4〕右下方にある松樹に寄り添う小木を意識したものであろう。この作品は、日本の入宋僧が朱子学の大成者、朱熹(1130−1200)の二弟子に直接接触したことを示すもので、日本儒学史上、宋学との最早期の関わりを示す重要な作品として位置付けられる(注14)。この図のモティーフからの借用はまさに儒学の正統性を表す表象として意図されたものということを示している。まず、山荘の前に水辺が広がり、鑑賞者の視線が建物の外から内へと導かれるように描かれている。こうした配置は基本的に大岳周崇(1345−1423)他賛「待花軒図」(出光美術館)のような書斎図の図様を想起させる。さらに注目すべきは構成における天与清啓賛「陶弘景聴松図」〔山梨県立美術館 図3〕との類似である(注12)。ここには松樹の間から覗いた楼閣の窓辺で陶弘景(456−536)が松籟に耳を澄ませているところが描かれている。陶弘景は斉・梁時代の道士で、隠居しても皇帝や高官たちにしばしば教えを請われたために「山中の宰相」と称された。特に松風を愛し、庭に松を植え、その響きを欣然として楽しんだという。本図上方の羅山詩に「嘯松風」と詠まれているように、陶弘景の「聴松」の故事が念頭に置かれていたと考えられる。その傍証として掲げられるのがもう一幅の「惺窩先生像」(個人)の存在で、杏庵・羅山の他に為景の賛が記されており、杏庵の賛には「藤斂夫先生栽松図」とある(注13)。これも陶弘景の故事に拠ったものである。山中に高臥しながら国事への荷担を厭わなかった陶弘景の態度は、まさに藤原惺窩の生き方そのものといっても過言ではない。この「陶弘景聴松図」に見える舞台演出が本図にも採用されたのはそうした背景があったからであろう。さらに、右端の樹木の表現は非常に古拙な印象を受けるが、それは詩画軸形式の原型の一つとして位置付けられる南宋時代の「送海東上人帰国図」室町時代の書斎図とやや異なるのは山荘の主である惺窩は既に没して20年が過ぎており、その意味では惺窩の遺像として制作されたという点である。もっとも山荘内に見える惺窩の姿は肖像画と呼ぶにはあっさりと小写されたに過ぎないが、書斎図にしばしば登場するような点景人物と異なり、顔貌の特徴もある程度判別でき、儒服を纏い、脇息にもたれた格好である。僧服を解いて儒服を纏ったのは惺窩が嚆矢とされる点からすれば(林羅山「惺窩先生行状」)、画中の姿はそのあり方を象徴するものである。又、脇息に持たれたポーズは維摩・人麿のそれに由来するもので隠逸を示す型と見なされる(注15)。それも白居易を喜び、陶淵明を追慕した惺窩の人となりを表すためである。つまり、小さいながらその姿は彼の存在を象徴するような演出が施されているということになる。
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