鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―183―山雪はさらにより新たな造形的な試みを行っている。画面左方、山荘の前に広がる空間表現は実に奇妙なものである。山荘にいる惺窩を挟むようにして前後に描かれた松樹は土塀の向こう側の松樹が左から右へ降りる急勾配の坂のようになっている。ところが、家屋の軒下の土坡の線は水平方向にも伸びる。但し、家屋の手前の石垣は右から左への勾配を描いているのである。手前の鮮やかな朱と緑の点描表現と相俟って、山雪は自覚的に画面上で遠近表現と二次元平面の相剋を見せているとすべきであろう。それは室町時代の雪舟(1420−1506?)「秋冬景山水図」(東京国立博物館)冬幅の遠山に先駆的に登場する二次元平面で焦点化していく遠山の表現を継承したと見なすことが出来る(注16)。山雪画におけるそうした指向の顕在化に当たっては、明時代中後期の蘇州を中心にした文人の描く書斎図の存在も無視できない。例えば、文徴明(1470−1559)の弟子、陸治(1496−1576)の描いた「元夜宴集図巻」〔上海博物館1547年 図5〕は、繊細な筆描とマチエールの美しさを止揚した呉派文人画の典型的な作品である(注17)。文徴明宅で上元の夜に開かれた宴を題材とした本図巻では、宵闇中で行われる宴の営みが、文徴明の画風を継承しつつ、その明澄な淡彩表現をさらに発展させた陸治らしい手法で表されている。家屋の中央には榻上で立膝をついた主人文徴明の姿が見え、ここにも隠逸の型が用いられていることがわかる。「藤原惺窩閑居図」に見た山荘にくつろぐ隠者の姿も、この図巻における文人宅を背景に隠逸を擬した主人が坐すという演出と共通しており、そうした意味でも山雪画はまさに南画へと引き継がれていく文人書斎図と見なすべき作品なのである。従って、一見して詩画軸形式を継承した「杜甫草堂図」と「藤原惺窩閑居図」であるが、その主題・典拠をめぐる位相は必ずしも同じものではない。前者の主題は唐詩人、杜甫の草堂を主題としながら、賛者である「桃山ぶりの隠栖」木下長嘯子(勝俊1569−1649)の隠棲を重ね合わせたもの。狩野派の始祖、正信の描いた図様をそのまま継承しつつ軽妙さを強調し、上方に和歌賛を加えることで新たな形を模索した(注18)。そうした試みはある意味で俳画の趣を先取りしたものと見なすこともできる。これに対して、後者の主題は同時代の日本人、江戸儒学の祖が閑居する姿であり、書斎図をはじめ前代の複数の詩画軸の図様を念頭に置きながら、さらに画中人物には隠逸の型を用いて象徴性を高め、遺像的な側面を加え、全体として明時代中国の文人書斎図にも通じるような佇まいを演出している。即ち、当時日本に流通していた古今の中国像を用いて日本を代表する儒学者のイメージを創出したのである。この両者に見られる志向の相違は、後に登場する池大雅(1723−1776)や与謝蕪村(1716−1784)といった南画家に見られるそれと重なるものであり、その意味で改めてその文人画家的

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