5日本におけるアヴァンギャルドの萌芽―189―――竹久夢二に内在する抒情と前衛――研 究 者:金沢美術工芸大学 芸術学専攻 博士課程 橋 律 子はじめにこれまで、大衆画家として、タブロー中心の美術史では無視されてきたが、美術史研究において受容の問題が重要になるにつれ、その影響力の大きさが無視できなくなってきている(注1)。五十殿利治は、現代美術の時代を明治末年からとする見解を示し、大正デモクラシーの時代に、芸術の享受者として登場したばかりの「民衆」が、文化産業を左右する膨大な数量としての「大衆」へと変化したことをその分岐点として挙げる(注2)。稿者は、五十殿の見解を支持する上で、現代とは大衆が文化の牽引者となった時代であり、竹久夢二という大衆の絶大な支持を得る画家の誕生こそ、その象徴的な出来事だと考える。そして、「大衆」という膨大な受容者層には、すでに形成されつつあったアカデミーに違和感を持つ青年層も含まれていた。大正アヴァンギャルドを代表する画家、渋谷修は、「日本の精神的美術−即ち前衛派の絵画は夢二の絵画を出発点として発生した」(注3)というように、竹久夢二の絵には大衆性だけでなく、新しい時代を牽引する時代の精神が表現されていた。本稿では、美術における「現代性」の発端を竹久夢二と捉え、前衛運動に与えた影響と、夢二に内在する前衛性について考察を行うが、それは個別の画家分析を超え、アヴァンギャルドの気運を生み出したエネルギーの所在を、夢二を通じて検証するものである。そして、近現代美術史における竹久夢二の再評価を試みたい。1.模写による竹久夢二受容恩地孝四郎を始めとする直接的な交流の中で影響を受けた画家については、昭和63年(1988)の「竹久夢二とその周辺」展(注4)等、先行研究ですでに指摘されているため、本稿では、大衆画家として流布した印刷図版からの竹久夢二受容に焦点を絞り、明らかにしたい。竹久夢二の絵が絶大な人気を獲得していくのは、それが雑誌メディアの発達とリンクしていたという背景がある。夢二がコマ絵でデビューを果たした明治38年(1905)は、大正期にかけての少年少女雑誌創刊ラッシュがまさに始まろうとしていた時期である。数十万部という発行部数を誇る雑誌が次々と生まれ、さらに友人間の雑誌の貸
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