*岡倉覚三とボストン―10―――ガードナー美術館の「中国室」を中心とした調査研究――研 究 者:お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 博士後期清 水 恵美子はじめに岡倉覚三(天心1862−1913)は1904年、行き詰まっていた日本美術院の資金調達と、ボストン美術館東洋美術コレクションの調査と整理を目的に渡米し、以後死去するまでの約十年間アメリカと日本を往復する生活を送った。その間ボストンにおける人的ネットワークを拡げ、当時著名な美術収集家であったイザベラ・スチュワート・ガードナー夫人(1840−1924)の知己を得た。彼女は洋の東西を問わず数多く美術品を収集し、1903年そのコレクションの収蔵と公開のためボストン市フェンウェイに私邸兼美術館を建てた。当時フェンウェイ・コートと呼ばれた建物が、現在のイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(以下、ガードナー美術館と表記)である。岡倉とガードナー夫人の交流に関しては、往復書簡、岡倉の英詩やオペラ台本“The WhiteFox”(1913)を手がかりに研究が行われてきた。しかし岡倉没後にガードナー夫人がフェンウェイ・コートに開設したThe Chinese Room(以下、中国室と表記)と岡倉との関わりについての先行研究は少ない。中国室は1914年〜15年のフェンウェイ・コート改装時に開設され、東洋美術コレクションが納められた。フェンウェイ・コートにはそれ以前にも中国室の名を持つ展示室が存在したが、そこは東洋と西洋の美術工芸品が混在する部屋であった。本論ではこの中国室を便宜上「旧中国室」と呼び、中国室と区別する。岡倉の死後ガードナー夫人は旧中国室を初期イタリア美術室と改称、異なる場所に中国室を設けた。しかし1971年に収蔵品が競売で散逸したことにより、中国室の詳細に関しては曖昧な点が多い。中国室と岡倉との関係についての最初の言及は、おそらく堀岡弥寿子The Life ofKakuzo¯(1963)における、ガードナー夫人が岡倉の執筆や瞑想のために与えた邸内の静かな部屋が、現在も当時のままの状態で維持されているとの記述であろう(注1)。この部屋は中国室を指しているが、その開設は岡倉の死後であり誤りであることが指摘されている(注2)。またビクトリア・ウェストンはEast Meets West: IsabellaStewart Gardner and Okakura Kakuzo¯(1992)で、旧中国室と比べて中国室は「寺院の雰囲気のある私的な空間」となり、中国室開設の動機は「岡倉の思い出に敬意を表すること」に違いないと述べている(注3)。岡倉の死が契機となってガードナー夫人を中国室の開設に向かわせたことは首肯できるが、ではなぜ「中国室」と呼称され
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