―190―借、学校での回し読み、図書館の利用等、数字に表れない読者がそれ以上にいた。そうした中で、人気挿絵画家である夢二の絵を見たことのない少年少女は皆無に近い状況であったろうし、逆に読者の要望が夢二の絵の掲載を促したという背景もある。こうした夢二人気を押し上げた読者たちの雑誌の読み方に注目する必要がある。少年少女雑誌創成期の雑誌読者たちの間では、気に入った図版を帖面に張り、薄紙を重ねて絵を写し取ることが流行っていた(注5)。中でも人気の高かったのが夢二の絵であった(注6)。夢二の図版は図書館などでも引き写され、オリジナルの夢二画集が編纂されている(注7)。架蔵の「挿画集」もその事実を裏づける〔図1〕。そうした写し絵や模写を行うのは、読者である少女ばかりでなく、芸術家を目指す若い画家たちも同じであった。岡本神草〔図2〕や古賀春江〔図3〕、岸田劉生〔図4〕までもが夢二風の絵を残している。「マヴォ」の柳瀬正夢は特に夢二に傾倒し、10代の頃のスケッチブックには、夢二式美人や絵ハガキの構成を真似てローマ字を書き入れたものなどが見られる〔図5〕。甲斐繁人によれば、柳瀬の手製装丁本『邯鄲夢枕』には、スケッチブックほど模倣に近い描写は見られないが、『草画』や『晝夜帯』、『山へよする』等と比較すれば、後ろ姿のモチーフや構図のとり方に強い影響が感じられるという(注8)。夢二処女画集『夢二画集 春の巻』に感銘を受け、感想を夢二に送ったことから夢二の元に通うようになった恩地孝四郎も、「夢二ズムに傾倒したボクは、その蒙る影響が大きかつただけ、それから脱却することに努力も少くなかったのである」(注9)と言うように、最初期には夢二風のコマ絵を描いている。東郷青児も、旅行がちな夢二の代りに、夢二風の絵を描いて港屋の商品を補充していたこともあり、それが「ぞくぞくするほどの光栄だった」(注10)というほど、夢二の絵は見ることに付随して、描き写すという行為をともなって受容されていったのである。そして、彼らはやがて夢二の影響下から離れ、大正期におけるアヴァンギャルド形成の主体となっていくのである。夢二の絵には、女学生たちだけでなく、柔軟な思考を持つ若い芸術家たちを魅了するものが確かにあった。しかし、そうした若い画家たちは皆、やがて夢二のもとから去っていく。すでに自己表現の確立に向け歩き出したものにとっては、過剰な情緒は疎ましく感じられたに違いない。だが、竹久夢二の果たした役割は、青年期における自己表現の方法論を探しさまよっていた若者たちに方向性を示したことにあり、最初期のアヴァンギャルドの形成に、夢二への憧憬があったことは検証する必要があるだろう。
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