―191―2.新しい人物の創造次に、竹久夢二の絵に表現された新しい時代の感性の所在について考察する。大衆の夢二熱は大正期にわたって継続するが、純粋に絵の与えた影響としては、大正5年(1916)の港屋閉鎖の頃までが大きく、模写された絵のほとんどが絵ハガキやコマ絵といった印刷物を介してであった。大正元年(1912)の初個展の成功を機に、夢二は画会にも力を入れ始めるが、その人気は夢二の絵を肉筆で見たいという欲求に応えてのものであり、あくまでもコマ絵画家としての夢二の存在があってのことであった。恩地孝四郎は、夢二初期の作品について、「当時その発祥に於ては誠に時弊を衝いた新しき精神の現れであつた。この精神は徒にリアリテをのみ唯一無二として遵奉してゐる現在の画壇に持ち来つてやはり意義のある精神でなくてはならないし、当時の青少年の心を忽ち捉へ去つたといふことも、強ちその主材の感傷主義のためとのみ云ふべきでないのである」と述べている(注11)。また、美術史家森口多里は、夢二を明治大正における美術史上の重要な画家のひとりであると早くから指摘し、画壇から批判を受けた。しかし、森口の夢二に対する評価は最後まで変わることがなく、「竹久夢二君は人物に新しいタイプを与えた、というよりは人物の新しいタイプを創造したというべきであろう」としてその才能を評価するだけでなく、時代において果たした役割の大きさを認めている(注12)。二人の夢二評に共通するのは、新しい時代の精神を表現したという点である。では、新しき時代とはどのような時代であったのか。明治から官主導の西欧化が急速に進むが、人々の感性は人情味あふれる江戸の情緒からすぐに転換はしない。環境の変化を緩やかに受け止めながら、近代教育を当然のように享受した層がしだいに拡大していく。大正期における大衆化の意味は、江戸情緒的社会から、人間の平均化をめざす管理社会への移行をも意味していた(注13)。速水融、小嶋美代子は、「西欧近代を目指し、そこに到達したかにみえたこの時期に、実は西欧近代への到達は表面のことにすぎず、家庭のなかでは伝統日本のしがらみから脱しきれない自分や家族、さらには意識の有無にかかわらず自分のなかに存在する矛盾の二面性が、「不機嫌」や「癇癪」のタネとなった」(注14)と分析している。夢二の絵は、そうした矛盾をはらんだ精神的な環境にあって、それでも若さゆえの希望、憧れ、不安、それらすべて包括した人間像として、皆の前に現れたのではないか。夢二の描く人物は、矛盾を内包したまま何をするでもなく佇んでいて、そして心の淀みを漂わせながら、外見的には最新の流行を身にまとっている。若い画家たちは、自分たちの心のうちにある新しい時代への希望や憧憬の中にある感傷を自然体で描き
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