鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―192―出されていることに衝撃を覚えたのではないだろうか。3.音楽的あるいは病的な線竹久夢二の絵は色彩と線に独特のものがあるが、強い影響を与えた初期のコマ絵や挿絵が主に単色刷りであったことから、線の特徴が際立っていたと思われる。恩地は、夢二の初期の線について「筋束のやうに生々と柔軟性に富んだ線」「水の如き味を持つ殉情的な線」(注15)と評し、若山喜志子は「特殊な柔かい音楽的な情緒的な線」(注16)、秋山雨雀は「殆ど病的に近い線の弱々しさ」(注17)と表現している。河井酔茗(注18)、堀柳女(注19)らも夢二の線の魅力については絶賛している。夢二の線が「柔軟性に富む」「音楽的」「弱々しい」と評されるのは、その線が一定の強さを維持せず、適度に力を抜きながら感覚的に描かれているからである。線は揺らぎ、時に強く、時に弱くなり、かすれもしているのだが、画面全体が最小限の線で単純化されていることから、かえって線自体の起伏に深みや奥行きが感じとれる構造になっている。単純さは親しみやすさに繋がり、自分も描けるのではないかと思わせる。「切り貼り帖」の流行の中心が竹久夢二の絵であったこともうなずける。夢二の線は、専門教育を受けていないからこそ描けた線であったといえる。夢二の描く日本画は、鉛筆の下書きがそのまま残されているものが多い。下書きの線は迷っているものもあるが、その線の上をなぞる墨線は、極めて大胆に勢いをもって描かれている。線のゆらぎ、かすれもそのままに一息に筆で仕上げているため、画家の呼吸まで感じることができる。本来、日本画は、幾枚もの下絵を描き、それを丁寧に写し本画に至る。しかし、夢二は下書きの鉛筆の線を必死でたどることはない。墨のかすれもそのまま生かし、鉛筆の下絵も残したままであることが、決して絵の欠点にはならず、かえって画家の息遣いを感じさせる効果となっている。この描写方法は近代美術教育から習得したものでないかと考えている。明治からの官主導のあまりに急速な西洋化に対する反動から、明治15年(1882)頃から国粋主義運動が高まってゆく。やがてそれは鉛筆画対毛筆画論争とつながり、明治20年頃には毛筆画教育が復活する。しかし、近代教育を経た毛筆画教育は完全に新しいものであり、鉛筆を下絵として完成させてから毛筆で描くという近代的手法が現場では行われていた(注20)。また、夢二が明治28年(1895)、高等小学校で服部杢三郎のもと初めて学んだ鉛筆画の授業は、当時としては先駆的な写生重視のものであった(注21)。山本鼎が大正8年(1919)に自由画運動を始めるよりも早くから、自由な美術教育が

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