―193―美術教諭によっては実践されていたのである。夢二の絵には学校における先端的な美術教育により培われた近代的な描写が盛り込まれ、逆に専門教育の場では旧来の描写が強いられるという「ねじれ」があり、夢二の絵が新しい時代の雰囲気を醸し出していた理由としてあげることができるだろう。4.サロンとしての「夢二学校」竹久夢二は無口な人であったが、自分が居ようがいまいが客人を常に歓迎し、それぞれが自由に振舞うことができるという環境は芸術家にとっては居心地がよかったようで、アトリエのある「港屋」二階は、芸術家が集うサロンのようになっていった。前述の恩地孝四郎や久本信男、田中恭吉、萬代恒志ら夢二の同人たちの他に、有本芳水、島村抱月、秋田雨雀、岡本綺堂、有島生馬、長田幹彦、谷崎潤一郎、北原白秋、相馬御風、若山牧水、小山内薫、喜多村緑郎、井上正夫、河井武雄らが集い(注22)、桑原規子が「当時「港屋」という場所が日本の新興美術を胚胎する一つの核となっていた」(注23)と言うように、まさに新しい芸術に向かうエネルギーが夢二の周辺に充満していた。大正13年(1924)に完成した「少年山荘」もまた、女性ファンだけでなく、岩田準一、中沢霊泉、守屋東、岡田道一らが集まり、芸術論を交わしたり本を読んだりと、それぞれが自由気ままに過ごしていた(注24)。この頃、夢二はすでに全盛期を過ぎていた上にスキャンダルもあり、このサロン的な雰囲気がかえって退廃的なイメージを付与し、人気を下火に向かわせたとも言える。しかし、全てを受け入れる自由な雰囲気が、世間で居心地の悪さを感じている若者たちを吸収する場となっていたのである。サロンと化した夢二の住まいでの夢二自身の存在感はきわめて薄い。恩地によれば、ただ互いに「ユーゲント」をめくっていただけだという(注25)。夢二がユーゲントの切抜きをスクラップブックに多数貼り付け、絵作りの参考にしていたことはすでに知られているが(注26)、そうした積極的な情報収集により、夢二の家には洋書や画集などの貴重な資料が溢れ、それもまた「夢二学校」(注27)の魅力であったといえる。夢二の周辺にいることは、さまざまなチャンスを得られる可能性も秘めていた。『月映』が発行の機会を得たのも、夢二を介してであるし、恩地が初めて装丁したのも夢二の詩集『どんたく』であった。このことは、夢二がどのような芸術を志向していたかとも大きく関わってくる。宇留河泰呂は、「夢二はああいう作品を作りつづけ
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